承前として、だがこんな調子で続けていっていいのだろうか、深夜、ベッドに仰向けに寝転がって、黒い天井を見つめ、僕は考えた。しかし熟考するには人生は余りに短い、ならばすべてよし! 僕は自分の背中に鞭打ち、立ち上がった。
第7番目の詩「恩納寺」
こんな詩になってくると、ほとんど騙されまいという猜疑心が走る。まず、高橋の言う「地域の季刊パンフ『二本箸』105号のエッセイ」は実在するのか。「日本橋通りの中心に位置するそのビル」は実在するのか。これは内田百閒まがいではないのか。確か百閒にも消えたビルヂングの話があったと記憶する。だが高橋の周到な書きぶりは、現実とも幻想ともつかないが、彼自身こう言っている、「もしかして、私もおなじ恩納寺の夢を見ているのでしょうか」。
第8番目の詩「矢切のわたし」
孫を連れて散歩してるのか。私事になるが僕には孫もいないし、こういう感慨は理解できない。僕は暴走族風の男女に「こいつらにも子供がいるのだ」とは言えない。いくら「プルースト」が出てきても、僕にはそんなふうに感じられない。僕は毎日1時間から2時間くらい犬と散歩してるが、暴走族風の男女が無邪気な顔をして僕のジャックをかわいがってくれるから。
だが、待てよ。この詩集全体を見渡せば、高橋はどうやら過去に銀行の第一組合に残って経営者と争ったのではなかったか。だとしたら、晩年、人徳者の顔をして、孫を連れて散歩いている自分を、どうしても書いておきたかったのではないか。
第9番目の詩「鼠捕り器」
夢の中の迷路を歩いて、同時にまたその歩行日記を夢の中で記述しているのであろう。夢に関して言えば、有名なフロイトの「夢判断」、エリスの「夢の世界」等、また、聖書やコーランなどの古典から現在に至るまで、厖大な夢とその解釈の記述があって、一人の人間が一生かかっても、いや百生かかっても読み切れまい。無数の人間の夢。
つまりこうも言えるのだろう。人間の現実は日常世界と夢世界がその中心世界とするなら、この詩は日常と夢の両世界を、すなわちこの現実を少しだけ拡大せんと表現せられたものと言っていいと思う。とにかく、女房の存在でさえ、日常生活か夢生活か定かではないのだから。
だから先程あげたエリスもラムを引用して夢の本質をこう言っている、「狂気したことのない人は遂に幸福を知らぬ人である」。
第10番目の詩「無期休暇」
定年退職してすでに十年、しかし夢の中では自分の番号札が呼ばれるのを待っている。夜も近づいたので、少し積極的になって、清掃の職員に事情を話し、自分の番号札が付番されたロッカーを探す。「札の番号を覚えると、今度はロッカーの番号を忘れてしまう。ロッカーの番号を記憶すると手元の番号がわからなくなる」。夢の中の私の不在。もっと正確に言えば、夢の中の私の意志の不在。僕は自営業でこの世を渡ってきたので退職という経験がないのだが、もし、退職という日常生活があれば、退職後の生活もあり、こんな意志の不在がやってくるのだろうか。
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