年末から正月にかけて「芭蕉俳句集」(岩波文庫1978年3月20日第11刷)を読んだ。芭蕉の発句982句及び存疑・誤伝の参考資料で構成されている。
こんな句があった。天和二年(1682年)、芭蕉39歳の作品。天和二年といえば、江戸の大火のため、深川の芭蕉庵も類焼。彼は翌年5月まで甲斐に逗留している。
まず漢文の前書があるが読み下しにして、「憂テハ方ニ酒ノ聖ヲ知リ貧シテハ始テ銭ノ神ヲ覚ル」
花にうき世我酒白く食黒し 52頁
江戸大火は12月28日。「花にうき世」とあるからこの作品はそれ以前になったと思われるが、ひっとしたら彼には芭蕉庵の炎上する姿が見えていたのであろう。
貞享三年(1686年)43歳。
いなづまを手にとる闇の紙燭哉 90頁
貞享四年(1687年)44歳
冬の日や馬上に氷る影法師 107頁
元禄元年(1688年)45歳
蛸壺やはかなき夢を夏の空 134頁
元禄二年(1689年)46歳。二句。
胡蝶にもならで秋ふる菜虫哉 200頁
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ 202頁
元禄六年から花屋仁右衛門の裏の貸座敷で51歳で死去する元禄七年まで。7句
しら露もこぼさぬ萩のうねり哉 270頁
いきながら一つに氷る海鼠哉 280頁
分別の底をたゝきけり年の昏 280頁
稲づまやかほのところが薄の穂 295頁
秋の夜を打崩したる咄かな 304頁
此の秋は何で年よる雲に鳥 306頁
白菊の目にたてゝ見る塵もなし 307頁
近代詩人は芭蕉についてどういう思いをもっていたのだろう。萩原朔太郎の「芭蕉俳句の音楽性について」(萩原朔太郎全集第四巻、新潮社昭和46年6月30日5刷)。彼の論の骨子は以下の通り。
「俳句の場合にあっては、作者の主観とリリシズムが、常に自然風物の背後にかくれて居り、言はば『止揚されたるリリシズム』『揚棄されたる主観性』となって居るのである。」(341頁)
「俳句のかかる一般的公式の中で、芭蕉の俳句は最も音楽性に富んで居り、したがってまた和歌に近く、主観的、直情的のリリックである」(341頁)
「平安朝宮廷文化の末路と共に、一時全く中絶してしまった國詩和解の精神は、元禄の芭蕉によって此處にまた別の新しい形で復活してゐる。それは勿論、多分に町人化し卑俗化した物ではあるが、しかも尚半俗半僧の姿に於て、中世の『物のあはれ』や『ほのかなるもの』やが、芭蕉の俳句に息づいてゐるのである。しかもこの上臈貴族の典雅なリリシズムは、芭蕉以後に於て全く日本の文学から失はれ、餘はただ町人的な、あまりに野卑で町人的な文学ばかりが、近世の徳川時代を独占した。」(344頁)
伊東靜雄の場合。大学の卒業論文「子規の俳論」(伊東靜雄全集201~215頁、人文書院昭和44年8月15日重版)。
「古来日本の芸術思想の根柢に横たわるものは、一種の唯心的な精神主義であった。かの我国最古の文学論として有名なる『古今集』序の
やまと歌は人の心を種として、萬の言の葉とぞなれりける
という心を先として詞を後にする思想は、只単に和歌のみならず俳諧に、発句に、連綿として伝統した所のものであった。」(201~202頁)
「芸術的主観の真の意味は、ある物象を知識によって抽象し、『有機的な統一を無機的にかへ』部分々々を概念的に整理することではなく、それは即ち一つの物象の全体から『ある概念の殆んど言明されない様な、縹渺たる象徴的具体的な観念(イデア)』(詩の原理)を感じとることである。」(213頁)
つまり、伊東靜雄は萩原朔太郎の「詩の原理」を原点として芭蕉の象徴主義と子規の写生主義の差異、また、子規の後期における表現の微妙な変化を論じているであろう。余談になるが、伊東靜雄の精神主義なるものは彼の詩にいかなる表現を具体しているかを簡単に引用してみたい。
詩集「わがひとに與ふる哀歌」(昭和10年刊)から、同名の詩の五行目から七行目まで。
かく誘ふものの何であろうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
詩集「夏花」(昭和15年刊)から「水中花」の最終行三行
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
詩集「春のいそぎ」(昭和18年刊)から「夏の終」最終連三行。この三行によって、彼はひとつの予兆を受容したと言っていい。
そんなことは皆どうでもよいのだった
ただある壯大なものが徐かに傾いてゐるのであった
そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かった
昭和20年8月15日の日記。陛下の御放送を拝した直後。
太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は靜かに浮び、家々からは炊煙がのぼってゐる。それなのに、戰は敗れたのだ。何の異變も自然におこらないのが信ぜられない。
そして詩集「反響」を昭和22年に出版。その後、昭和24年発病、昭和28年永眠。享年46歳。この間に書かれた詩の中から「長い療養生活」を割愛しないで引用する。たかだか六行の詩で伊東靜雄の作品だと知らなかったら、まったく注目されずに終わるだろう。しかしそれにもかかわらず、伊東靜雄である。
せんにひどく容態の悪かつたころ。
深夜にふと目がさめた。私はカーテンの左のはづれから
白く輝く月につよく見つめられてゐたのだつた。
まためさめる。矢張りゐた。今度は右の端に。
だいぶ明け方に近い黄色味を帯びてやさしくクスンと笑つた。
クスンと私も笑ふと不意に涙がほとばしり出た。
横道に逸れてしまった。僕は芭蕉の発句をご紹介しているのだった。だが、もうわけがわからなくなってきたし、とりあえず伊東靜雄に敬意を表して彼が引用していた古今和歌集の序を前書に芭蕉の一世一代の一句を併記して、ことしの正月と別れようと思う。
やまとうたは人のこゝろをたねとしてよろづのことのはとぞなれりける
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
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