2011年11月28日(月)。カジュラホの寺院群を観る。よく言及されるラクシュマナ寺院やカンダリア・マハデーヴァ寺院などの壁面に描かれた数多くのエロティックなミトゥナ(男女交合)像のレリーフ。一般論で言えば、これをヨーガに対するボーガといって、すべてを官能的快楽の一点に集中してブラフマン(梵)とアートマン(我)が一体となる、いわゆる梵我一如の世界。
紀元前400年から200年頃までに成立したとされる「カタ・ウパニシャッド」では、周知の通り、ヨーガをこのように説明している。
「彼(精神原理)のすがたは目に見えず、だれも彼を目で見ることはない。彼は心によって、思惟によって、思考によって表象される。このことを知る人は不死となる。
五感の知覚も思考力も静止し、理性も活動しないとき、それを人々は最高の帰趨という。
その確固とした感覚器官の保持を、人々はヨーガと理解する。なぜならば、ヨーガは発現(起源)であり、没入(消滅)であるから。」(世界の名著第一巻150頁。中央公論社昭和44年5月30日刊)
すなわち、感覚器官を制御して心を散らさないようにする技術をヨーガというのだろう。
もう少しヨーガについてみておこう。紀元5世紀頃にパタンジャリが著したとされる「ヨーガ・スートラ」。
「心の清澄とは、心が専念状態になって、安定した状態をいう。」(同書215頁)
こうした心の専念状態に関して言えば、ヨーガの瞑想技術とカジュラホのミトゥナ像に見られる男女交合のさまざまな性技とはある面で共通するだろう。ほとんどのミトゥナ像の男女は、うっとりしてとてもうれしそうな表情をしている、一種の解脱状態に近いと言っていい。
ただヨーガの最終目標は、言うまでもなく、この輪廻転生する世界からのモクシャ(解脱)にある。
「煩悩と業とが消失すれば、賢者は生存しながら解脱する。なぜならば、生の原因である無知という煩悩を滅した人が、次の生に生まれるということは、だれによっても、いずこにも見られないから。」(同書244頁)
モクシャとはこういうことだろう。例えば前世が蛇で、現世が人で、来世がゴキブリという姿で輪廻転生するこの私をいまここでただちに垂直に断ち切る。このヨーガの究極目標と比較すれば、カジュラホのミトゥナ像には何故か違和感がないといえなくもない。
ではやはり、カジュラホのミトゥナ像は、紀元前1世紀から紀元6世紀の間に生きていたバラモン僧ヴァーツヤーヤナの著作「カーマ・スートラ」の世界に近いのかも知れない。
「人間は、人生百年のさまざまな時期に、ダルマ(法)、アルタ(富)、カーマ(愛欲)を実践すべきだが、この三つは調和を保って、おたがい衝突しないようにしなければならない。幼少時代に学問を身につけ、青年期と中年期にはアルタ(富)とカーマ(愛欲)に専念し、老年期にはダルマ(法)を成就すべきで、こうしてモクシャの獲得に、いいかえれば、輪廻から解放されるように努力しなければならない。」(カーマ・スートラ。角川文庫平成9年4月25日改版初版23頁)
ご存知の通り、「カーマ・スートラ」は性器の大きさによって男女の相性を考察したり、性技をさまざまに分析してマニュアル化するばかりではなく、男と彼の妻、他人の人妻、そして娼婦との関係をサロンやハーレムを舞台としてさながら恋愛小説のエッセンスを提供せんとする性愛全般の教則本だと言っていい。
この本の結論は次の通り。
「利益には三つの種類がある。つまり、金銭の獲得(アルタ)、宗教的価値の獲得(ダルマ)、快楽の獲得(カーマ)である。同じように、損失にも金銭、宗教的価値、快楽の三種類がある。」(同書195頁)
この三種類の利益をバランスよく満足させることが人間の最終目標だと「カーマ・スートラ」は考えている。ちなみに、宗教的価値(ダルマ)とは神秘的なものではなく、いわゆる社会的家庭的秩序及びそのために必要とされる掟・道徳を意味するのだろう。極端なカースト制度を確立させそれを維持せんとしたならば、それは当然だったろう。現代風に言えば、権力欲・所有欲・性欲、この三大欲望を極限まで高めることが人生の最終目標だと。
だから死後の世界についてこう言っている。
「欲望が満たされないまま死んだ人間の魂は、直接至高の霊のもとへはゆかず、死霊の世界へおもむくといわれる。」(同書198頁)
ところで真我の独存(解脱)を目標したヨーガ・スートラでは、死についてどう考えているのだろう。カジュラホのミトゥナ(男女交合)像とは直接関係しないが、ついでに引用しておこう。
「死の兆とは、たとえば、眼を閉じたとき内的な光を見ないこと、突然に祖先のすがたを見ること、あるいは突然に天界を見ることなどをいう。」(ヨーガ・スートラ232頁)
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