旧約聖書外典

月18日夜遅くイスラエルから帰国して数日間、僕はぼんやりして過ごした。それまで好天に恵まれていたが旅行の最後の三日間、エルサレムは冷え込み、雨がぱらつきはじめ、降ったりやんだりしてる。爪先から喉元まで凍り付いた気持ちになる。日本と同じようにイスラエルでも異常気象が続いているという。

おそらく風邪気味なのだ。熱っぽい体で、しかし既に読書は中毒になっていて、旅行の余韻の中で、僕はイスラエル関連の本を三冊読んだ。「旧約聖書外典上、下」(講談社文芸文庫)、「パレスチナ新版」(広河隆一著、岩波新書)。
「第一マカベア書」。解説にある通り、へブル聖典では旧約聖書外典を排除しているが、ローマ・カトリック教会では聖典とされたり、聖典に準ずるものとして扱われている。その中、掲題の「第一マカベア書」は、シリアのセレウコス王朝支配下のパレスチナを舞台に、異教に抗してユダヤ宗教を守ろうとして立ち上がったマカベア一党の独立運動が書かれている。紀元前二世紀前半のユダヤの歴史である。この間の出来事の一端を理解するために「世界の名著第12巻聖書」(中央公論社、昭和43年10月10日初版)の巻末の年譜をあげておこう。

前167年ころ
セレウコス家のアンティオコス四世エピファネスが極端なヘレニズム化政策によってユダヤ人の信仰を弾圧したため、ユダ・マカベアの反乱が起った。「ダニエル書」は、この抗争の時代に黙示文学形式で書かれた予言者的抵抗の文書である。
前142年
愛国的なマカベア戦争が二十年以上つづいたが、この年ついにハスモニア王朝のもとにユダヤは独立した。(同書556頁)

つまり、「マカベア書」は史実をもとにして言わばユダヤ史観とでも言っていい歴史を表現したものであろう。
3月12日月曜日、僕はイスラエルのギルボア山でフラワーウォッチングを楽しんでいた。海抜536mのこの山では、3月、アイリスが咲き、さまざまな野生の花が乱れ咲く、そこでは、緑に輝くエズレル平野が展望され。余談になるが、イスラエルに咲く花には、野生の原種のシュクラメンがあるのを知って、少し小ぶりだが、いささか感動したのを覚えているのだが。しかし、僕がこの山を訪れた理由は、旧約の「サムエル記」に書かれている通り、サウル王とその子ヨナタンがぺリシテ人と戦い、ここで戦死したからであろう。少し長いが引用しておこう。

ぺリシテ人はイスラエルと合戦し、イスラエルの人達はぺリシテ人の前から敗走してギルボア山に至り傷つき倒れた。ぺリシテ人は、サウルとその子らに追いつき、ぺリシテ人はサウルの子らヨナタン、アビダナブ、及びマルキシュアを殺した。戦闘はサウルに向けられ、遂に敵の射手は弓をもってサウルを射当て、サウルはその射手によって甚く傷ついた。サウルは彼の武器を担ぐ従者に言った、「剣を抜いて、わしを刺し殺してくれ。これらの割礼なき者がやって来てわしを辱かしめないように」。しかし従者は甚く恐れて、敢えて手を下そうとはしなかった。そこでサウルは自ら剣を取ってその上に俯伏せに倒れた。従者はサウルが死んだことを見とどけ、自分も又彼の剣の上に倒れサウルと共に死んだ(サムエル記第31章1-5、岩波文庫昭和46年5月20日第5刷、関根正雄訳)

尚、訳者によれば、「ぺリシテ人」は紀元前12世紀パレスチナの海岸地方に定着した地中海民族。また訳者の解説によれば、「サムエル記」は「古代史家エドゥアルト・マイヤーが他の凡ゆる古代東方の歴史記述にはるかに優る歴史記述と見なしたものであり、キケロ以来『歴史の父』といわれるかのギリシアのヘロドトスより約5百年も古いのである」。ふたたび「世界の名著第12巻552頁」から。

前1020~1000年ころ
予言者サムエルから油を注がれて、サウルが初めてイスラエルの王となる。彼の治世は戦争の連続であり、彼はぺリシテ人と戦って戦死した。

聖書を読んでいない人にとっては、その内容は神話の世界であろうくらいに判断されているだろうが、仮に「サムエル記」だけでも読んでみれば、その歴史記述の素晴らしさに心打たれるに違いない。
話は変わるが、現代人の、殊に欧米人、もちろん日本人も含まれるが、この世に対する考え方は人間中心主義だと思う。この思想は言うまでもなく、19世紀前半の英国の産業革命によって確立された思想だと言っていい。今のはやり言葉「持続可能な社会」、この言葉も人間がより長く延命できる世界を提言する際に、呪文のような形容として使用されるだろう。他人本位と自分本位との間を振り子のように振幅しながら人間中心主義は19世紀から21世紀の今日まで人間の前頭葉を支配してきた。
一方、聖書の世界では人間中心主義とは180度異なった思想が徹底されている。それはいわば神中心主義だと言っていいのだが、神が創造し審判する終末までの間、人間も含めてすべての生命体・物体の一切は共通して神に造られたものであり、同じ絶対平等の低みに存在している。ただ神に反逆する人間だけには終末があり、最後の日、神の審判を受けなければならない。
今回僕が読んだ旧約聖書外典の中では、終末を表現する黙示文学「第四エズラ書」や「エノク書」を一読していただきたい。「第四エズラ書」から引用してみる。

そのとき、太陽は突如、夜かがやき
月は昼に照り、
樹々は血をしたたらせ、
石はかたり、
諸国民は混乱におちいり、
星々の動くみちすじは変る。
地上の住民の欲しない者が主権を握り、
鳥もみなにげ去る。
死海すら魚を吐き出すだろう。
だれも知らない者の声が夜きこえ
すべての者がその声をきく。
地は多くの場所で大きく裂け、
火が噴き出して長い間もえつづける。
野獣はすみかをはなれて遠くめぐり、
女たちは怪物を生む。
清水には塩水がまじり、
友人は突如としてたがいに敵となる。
さとりは身をかくし、
知恵は自らの居室に退く。
多くの者は知恵をさがし求めるが、見出すことができない。(旧約聖書外典下、135-136頁)

尚、神中心主義についてのわかりやすいテキストとしては、「宗教哲学」(星野元豊著、法蔵館)をおすすめする。僕の持っているのは昭和48年2月20日改訂6刷である。星野元豊について、いつか一文したい。
広河隆一著「パレスチナ新版」(2002年5月20日発行)。著者は生死も定かではない現場で、言うまでもなくユダヤ人がパレスチナ人を虐殺している現場やレバノン南部でレバノン南軍がパレスチナ難民を殺戮しているキャンプを包囲し支援しているイスラエル軍の現場のことだが、この地獄の前で著者自らの無力を悟り、しかしイスラエル人とパレスチナ人の和解を祈っているのであろう。反対意見もあるかもしれない。特にユダヤ人からは痛切な反論が出るかもしれない。だがパレスチナ理解の必読書だと言って過言ではあるまい。

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