詩的現代2号

僕には読みだしたら止まらない傾向にあるのか、鈴木章子さんからいただいた詩誌を一気に読んでしまった。やはり言葉はおいしい料理で、噛んでも歯は折れないし、読後、おいしかったな、そんな高揚感だけが残る。

季刊詩的現代2号第2次 2012・9・1発行

すべておいしかった。たとえば、「特集・同人誌を考える」では、新井高子の「詩誌『ミて』について」を読んで、驚いたものだ。同人誌にしろ、個人誌にしろ、月刊にまでもっていくなんて、ほとんど「想定外」と言っていい。

詩の作品はどうか。やhり僕は鈴木章子の「文月はぜる」が好きだ。なぜって西脇順三郎風に言えば、曖昧なものを正確に曖昧に表現するその力量にあるのだろう。曖昧なものをさもわかったように表現しない、この原点を見失っている表現が余りにも多いと言っていいのではないか。

愛敬浩一の「新前橋駅の朔太郎」。これってなんとなく「朔太郎」の「あとがき」であろう。しかし、この作品の主題は、おそらく詩人の「不遇」について、そしてこの不遇こそ痛ましい光栄であろう、つまり、周囲の自然となじむこともない落差をいとおしむ作者の思いの結晶であるかもしれない。

高橋馨の「ジャン=ジャック・ルソーを讃えて」。これは一応評論ということになっているが、僕は韜晦した散文詩と見た。最近世に問われた彼の詩集にも、評論と見せかけ、その心は散文詩を書いているふしのある作品が散見する。ここにはルソーを中心にプラトンからニーチェに至るまでさまざまな人物や概念が登場するが、騙されてはならない、これは彼の黄金時代の隠微なる表象ではないか。

今夜、「詩的現代」というディナーは終わった。詩という御馳走も決してまずくはないと思う。日本料理は日本料理の、水泳は水泳の、犬には犬の、ランボーにはランボーの世界があるのだと思う。

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