最近つまらないことばかり気にかかってしまう。つまり僕は無能力だから、ささいなことについ気を病んでしまう。このあいだも、語学力もないくせに「BLAKE’S POEMS」というウィリアム・ブレイクが書いた英語の詩集を読んでいて、「Energy」という言葉がとても気になった。参考にしていた寿岳文章訳「無心の歌、有心の歌」(角川文庫)の当該個所を探してみる。「情熱」、僕は声にまで出してよんでいた。アレ? 喉の奥に魚の小骨が突き立ったような、奇妙な異物感を残したままで。
ほとんど同時に僕はジョルジュ・バタイユの「文学と悪」(ちくま学芸文庫)を読んでいると、またウィリアム・ブレイクに出会った。バタイユがブレイクを批評しているのだが、僕の中でブレイク現象が立て続けに発生してくる。とても恐ろしい。ブレイクの方から僕に近づいて来るのだろう。
このバタイユの本は山本功という人が訳していて、例の「Energy」という言葉を「精力」と訳し、おまけにカタカナでエネルギーとルビをうっている。
That God will torment Man in Eternity for following his Energies.
人もし情熱の命ずる所に従えば、神は永劫に人間を呵責するであろうという事。(寿岳訳)
神は、自分自身の精力に奉仕する人間を、永遠に、責めさいなむであろう。(山本訳)
Energy is the only life,and is from the Body;and Reason is the bound or outward circumference of Energy.
情熱のみが唯一の生命であって、それは肉体から来る。理性は情熱の限界もしくは周壁である。(寿岳訳)
精力こそは、唯一の生である。それは、肉に属する。理性は、精力をとりかこむ限界もしくは枠である。(山本訳)
Energy is Eternal Delight.
情熱こそ永遠の歓喜である。(寿岳訳)
精力は、永遠のよろこびである。(山本訳)
ブレイクの詩集「天国と地獄の結婚」から「悪魔の声」という作品の一部を引用した。繰り返しておくが、山本訳の「精力」にはすべてエネルギーとルビがうってある。
この三行を読むだけでも心因性エネルギーのカオスに充満している人ならブレイク建築の土台の素材のおおよその見当はつくと思うが、あえて単純化して言えば、理性はエネルギーを抑圧するものであり、詩は理性によって製作されるのではなく、エネルギーからあふれ出てくる言葉であろう。だから詩はこの世を支配する理性の否定である。1800年前後の英国、教会や司祭たちによって抑圧されていた人間本来のエネルギーをブレイクはあたかも祭りのように解放するのだろう。余りいいたとえではなく少し下品で粗雑ではあるが現代風に言えば、文科省指導のもとに「教育」された所謂「適正な社会人」として鍛冶された人間から、詩はその理性の卵の殻を破って本来のエネルギーをかきたてるであろう。
ブレイクの言葉、「Energy」は、私見ではそのままエネルギーと訳しておいていいのではないかと思う。たとえば、策を弄して、「情熱」という言葉だと、余りに人間的で、人間理性の城砦を破壊できないだろう。
こういった言葉の世界に興味のある方は、同時にまた、ウィリアム・ブレイクに関する角川文庫の中沢新一の解説「はちきれそうな無垢」と「文学と悪」の中のバタイユのブレイクとを比較してほしい。ここから先は、探究心のある方だけがさらに奥の細道を行くであろう。
いずれにしても僕の結論は、「Energy」をこの場面ではエネルギーと翻訳すればそれでいいという考え方であった。ブレイクの詩を理解する場合、こんなつまらない労力、それはほとんど無能力で病的だと言われても仕方ないのだが、けれども僕はこんな一語に悩み、まるで喉の奥に魚の小骨が引っかかったように苦悶してるのだが、なぜなら既に僕の隣にブレイクが座っている。
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