藤井章子著「文月にはぜる」(思潮社、2013年11月20日発行)
僕が藤井さんの詩を初めて読んだのはおおよそ2年前、友達の山中従子さんからいただいた詩誌「すてむ」vol48に掲載されていた「都市」という作品で、この詩集にも収録されている。この作品を僕は「芦屋芸術」Ⅲ号にこういう不思議な味のする詩だとご紹介した。つまり、「都市」という作品は地上世界と地下世界が隠微に和合する恍惚感が結晶していると。
僕が感じた不思議な味覚は、このたびの詩集によっていよいよ鮮度を増してきた。確かに言葉で組み立てた思想は余程のものでない限りすべて色褪せてしまうが、その味は永続するだろう。藤井章子さんは、言葉の味覚の方を大切にされてきた、と僕は独断するのだが、そしてこの志をつらぬく人生はいかにつらいものであるかに思い至れば、とてもステキな道を歩いてきたんだな、そう僕は思う。
言葉が意味不明の闇に落ちていく手前で、あるいはその直後でからくも踏みとどまり、そのあやうい姿勢のままでつながっている。ここでは言葉がそれぞれの意味で結ばれているのではなく、例えば言葉固有の艶、あるいはその響き、南に位置するかそれとも北か、言葉それ自体の方向感覚・季節感覚、あえて言えば、この世の地下から発信された隠微な結合物として。白紙に言葉をぺたぺた貼り続ける狂言とその笑いについて。藤井さんはおそらくそんな、死語を死語として、日常語を日常語として、つまり、だから、生前から既にあたえられていた言葉に感謝して。
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