ヘルダーリン全集第3巻(手塚富雄、浅井真男訳、河出書房新社)を読んだ。この集では小説「ヒュペーリオン」と悲劇「エムペドクレスの死」が収録されている。
僕は若い頃「ヒュペーリオン」を読んで、この作品は恋にも革命にも破れた男の告白、ちょっと青臭い表現になってしまうが、青春の挫折のエッセンスだと思った。事実、ヘルダーリンはフランス革命に失意し、愛慕したズゼッテ夫人との別離があった。このたび読み直しても、やはりヘルダーリンの余りにも純化された思いが僕には痛ましい。彼はこう言っている。
美でさえ、逃れがたいその運命に向かって熟していくのだ。(85頁)
あなたの運命が熟す時。ハイデガーの「時熟」といっていいのか。おそらく、ヘルダーリンの詩で、もっともよく知られ、もっとも愛されてきた作品、それは「ヒュペーリオン」の中でも特筆すべく、まるで一本の噴水のように天空めざしてみずからの悲しみ、運命を吹き上げてゆく。
あなたたちは天上の光をあびて
やわらかなしとねの上をあゆむ、しあわせな精霊たちよ、
かがやくそよ風は
かるくあなたたちに触れる、
たおやめの指がきよらかな弦をかなでるように。
天上の精霊たちは運命のない世界にやすらっている、
寝入っている赤子のように。
つつましい蕾のうちに
けがれもなくまもられて
そのいのちは
とはに花咲いている、
そしてそのやすらかな眼は
変わらぬしずかな
明るさをたたえてかがやいている。
だがわたしたちは定められている
どこにも足をやすめることができないように。
過ぎてゆく 落ちてゆく
悩みを負う人の子は、
ひとときまたひとときと。
ものぐるおしい谷水が
岩から岩になげうたれ
はてはその跡も
知られぬように。(134-135頁)
「エンペドクレスの死」は、ニーチェのツァラトゥストラの永劫回帰説の前身でありながら、結局、ニーチェは、残念ではあるが、ヘルダーリンたりえなかったろう。
行け! なにも心配はいらない! いっさいは回帰するのだ。そして、おこるべきことは、すでに成就しているのだ。(404頁)
天上から降りそそぐ光と地下から逆流する夜の川とが、人間の中で結合して霊化する、半神的世界の表現は、将来、ヘルダーリンという他界した泉から純粋な言葉に化して結晶するだろう。
サド関連では以下の本を読んだ。
「ジェローム神父」(サド原作、澁澤龍彦訳、会田誠絵、平凡社)
「サド侯爵の幻の手紙」(ソレルス作、鈴木創士訳、せりか書房)
「サド侯爵の生涯」(澁澤龍彦著、中公文庫)
「サド侯爵夫人」(三島由紀夫著、新潮文庫)
ここで僕はしばらく、あるいはもうこんな歳になって、ひょっとしたら死ぬまでかもしれないけれど、サドから離れようと思う。これからは、ヘルダーリンと彼を論じたハイデガーを読み、同時にまた、「ギリシア悲劇」と「ギリシア喜劇」も読んでいこう。ヘルダーリンの源は「ギリシア悲劇」、サドのそれは「ギリシア喜劇」、ひっきょうそういってさしつかえあるまい。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。