きょうはボクのワイフの三年目の命日である。ちょうど二年前のきょう、二〇一五年七月十九日、仏教で言えばボクのワイフの一周忌の夜のことだが、我が家で二十人近い友達や息子夫婦を呼んで、ボクのエレキギター演奏をバックに、ケータリングでホームパーティーを楽しんだ。亡くなったワイフもボクも無宗教なので、通夜もお葬式もしなかった。もちろん、一周忌の法事も。
翌朝、我が家に泊まった友人Aは、朝から昨夜食べ残した料理をあてにして酒を飲みながら、「ふたりだけの時間」をB出版社から出版しないか、そう持ちかけてきた。「B出版社のC社長がこれを読んで泣いたよ。本にしたいと言ってる。トオルやろうよ」。
三年前、とても元気だったワイフが突然すい臓ガンだとわかってから1ケ月余りでこの世を去った。骨を抱いて我が家へ帰って十日ほどたった時、どう言えばわかってもらえるだろうか、激しい表現衝動が脳髄から噴き出してボクの右手をつかまえ、ほとんど自動筆記の状態で二週間余り、八月十五日の夜に「ふたりだけの時間」という作品が生まれてきた。これはボクラふたりが過ごした1ケ月余りの別れの日々の日録だった。この文章を直ぐ印刷・製本に回し、九月二日発行日の小冊子にして「芦屋芸術」から出版した。どうしても九月二日発行でなければならなかった。その日にワイフは生まれていて、ボクが彼女に送った最後の誕生日のプレゼントだった。
出版のお話を頂いてからきょうで二年。結論から言うと、「ふたりだけの時間」は出版されなかった。二つだけ理由をあげるなら、一つは商業出版向けの本を書く力量がボクにはなかった。二つには友人Aならびに編集者Dの編集方針にボクは本心では同意してなかった。だから無理して書こうとすればする程、ますます書くことが出来なくなってしまった。まだ他にもあるが、もうどうでもいい話なので割愛する。
去年の十月、編集者Dがこの話から降りる、そうメールしてきた時、ボクはなぜかホッとした。これでやっとボク自身の編集方針で文を書くことが出来る。書名も「ふたりだけの時間」ではなく、既に別題が出来ている。二年近い歳月、あれこれ書きなぐっては原稿を破棄してきた苦行は決して無駄ではなかった。こんな機会を与えてくれて、友人Aにも編集者Dにも心から感謝している。この話がなかったら、おそらく「ふたりだけの時間」は、あの小冊子だけで終っていただろう。別にそれでもいいのだけれど。
さて、ボクが新たに出版する本は、五篇の作品で構成され、二篇の作品はもうほとんど完成している。後の三篇の作品も骨格は仕上がっていて、これからじっくり完成していく。来年のきょう、つまりワイフの四年目の命日には、必ず完成して彼女に捧げたい。作品はそれぞれ原稿用紙で五十枚前後から百枚前後。五篇全てが独立した作品でありながら、全体としてもある純粋なビジョンが浮かびあがってくる、そんな作品集である。
完成したら、どこかの出版社に出版を依頼するか、あるいは従来通り「芦屋芸術」から出版するか、そこまで先のことはわからない。しかし、もうひとつの選択肢も魅力的だ。ワイフの骨壷と遺影はダイニングの東窓の飾り棚の上でこの三年間じっとしている。隣には去年の十月に亡くなった愛犬ジャックの骨壷が立っている。彼女とジャックの骨壷の前に完成した作品の原稿を置こう。「えっちゃん、ジャック、君たちの作品、出来たよ」。息子には遺書をのこしておく。彼等はボクの遺体と一緒に原稿を焼却するだろう。
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