この詩集もボクのワイフの遺品である。五十年近い昔、彼女が十九歳で読んだ本を、この歳になって、僕が読んでいる。彼女の供養だと思っている。ケッタイな話だ、ほとんどアブノーマルか。
世界の詩集第四巻「バイロン詩集」(斎藤正二訳、角川書店、昭和42年6月10日初版)
ボクはバイロンの作品を読んだこともないし、読もうとしたこともない。著名な詩人を集めた作品集あたりで一篇や二篇、読んだのかもしれないが、記憶に残っていない。
この詩集に限って言えば、バイロンはとても気性が激しい男だったようだ。その感情の起伏が言葉でくっきり表現されていて、おもしろかった。恋愛詩系と孤独放浪詩系の作品が多いが、そう状態とうつ状態の移り変わりが、わかりやすく、力強く描かれている。イギリスの産業革命前夜、貴族でありながら、既に時代を先取りして、あくまで一個の人に徹して生きんとする姿が、愚直なまでに華麗である。
ところで、話は変るが、バイロンはこんな詩も書いている。
もし、この世のかなたにあるかの天上の世界が、
この世からのつづきの「愛」を貴きものとしていつくしみくれるとせばー
もし、天上にても、忘れられぬなつかしき恋の思いがいよよ深められ、
涙干(ひ)ゆきしを別にしては、眼差の語りかける思いに変りあらずとせばー
いかに慕わしき所なるぞ、かの踏み入れしことなき天界は!
いかに甘美なる時ぞ、このいのちたゆる瞬間は!
地上よりあまがけり行きて、恐怖という恐怖が
「永遠」よーあなたの浄光のうちに没し去る!
(184頁、「もし、かの天上の世界が」の第一節。第二節は省略)
この地上で愛しあった者が、死別しても、再び天上の世界で愛しあうことができますように、すなわち、不滅の愛を歌った詩である。この詩は、旧約聖書と響きあう言葉で書かれた詩群「ヘブライ調」の中の一篇。バイロン二十六歳の時。
この主題は、仏教でも、特に浄土系思想の所謂「倶会一処」(くえいっしょ)として表現されている。この世で愛しあった者が、阿弥陀仏を信じて、共に浄土に往生し、ふたたびめぐり会い愛しあうことを切実にこいねがうのだった。また、イスラム教の聖典「コーラン」にも同質の世界が表現されていたと、ボクは記憶する。
仏教で言えば、愛しあっているものが、死別する、あるいは、生きながら別れてもはや会うことがかなわない、そういった苦しみを愛別離苦という。五苦のひとつである。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死に至る苦しみ、愛するものと別れる苦しみ。仏教の修行者は、こういった苦しみから解脱して、涅槃寂静の世界に生きている。
だが、けっして宗教だけではない。バイロンのこの作品にも見えるように、言語作品もまた人間の根元的な苦しみ、「愛別離苦」を超越せんとして、純化し結晶しているに違いない。
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