来年の一月十五日でローザ・ルクセンブルクが虐殺されて百年を迎える。一足早いが、「芦屋芸術」としては、ローザ・ルクセンブルクの没後百年の行事として、彼女の遺した文章の「読書会」の開催を企画している。といっても、この「読書会」に参加するのはボクひとりだし、その読書感想文もまたボクひとりで「芦屋芸術」のブログに書き込んでいくだけだけれど。
生前ローザはレーニンの一党独裁論を批判し、論争した。この一党独裁論の流れの中で、スターリンが登場。彼の反対派はことごとく処刑された。同時に、これ以降、ボクラの住んでいる資本主義社会において、社会主義建設・共産主義はヒトラーの恐怖政治と同義語になった。先日、ルカーチの「歴史と階級意識」を読んでいても、レーニンの革命論によってローザを批判していた。しかし、そのルカーチもさすがに第二次世界大戦後出版された「理性の破壊」の単行本では「マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリンの唯物論」と書かれていた文章を、フルシチョフのスターリン批判後に出版された全集版では「スターリン」の文字を削除している。ルカーチは何故「スターリン」の文字を削除したのか。資本主義社会やブルジョア文学などは頽廃していると厳しく批判するように、しっかり自己批判したのだろうか。
いずれにしても、レーニンの一党独裁論が再検討されなければならない。そのためにも、ローザ・ルクセンブルクの没後百年の「芦屋芸術」の行事は、トテモ意義あるものとなるであろう!?
ローザ・ルクセンブルク選集第一巻 1969年12月20日新装第一刷 現代思潮社
(訳者 野村修、田窪清秀、高原宏平、喜安朗、片岡啓治)
第一巻を読んで、つくづく思うのは、ドイツ社会民主党のベルンシュタインに代表される修正主義者との闘いが革命哲学家ローザの生涯に一本の太い線を描いている、と。すなわち、社会改良か革命か、この問いである。資本主義の社会改良が目的で、革命など「無」だ、そう主張するベルンシュタインらに対して、ローザは革命が目的であり、社会改良はそのためのひとつの手段だ、そう反論した。例えば、労働者は賃上げ闘争が目的ではなく、賃金労働から解放されるのが目的なのだ……。
既にボクの読書感想文も佳境に入ってきた。けれど、第一巻を読んでいて、ローザの「恐慌論」は間違っている、ボクはそんな印象も受けた。後日、これは明確にしよう。それはともかく、ボクはさらにすすんで、ローザの「読書会」のイベントを遂行しなければならぬ。ローザ・ルクセンブルク選集第二巻の読書感想文を「芦屋芸術」に書かねばならぬ。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。