前回の読書会で勉強したとおり、人間の労働はいつの時代にあっても、自分の一日の消費手段以上の生産物を生産する。これが人間の基本的な特色で、この土台の上で、人間の文化は形成されている。
さて、ボクラが現在住んでいる資本制生産の場合、イギリスの古典経済学によれば、人
間の労働が年々歳々繰り返されることによって、資本の再生産、つまり、資本家と労働者が再生産される社会である。
仮に、労働者の賃金をv、労働者が生産する剰余価値、言うまでもなく資本家の収入のことだが、それをmとする。古典経済学のスミスやリカードによれば、社会の総生産の価値は、労働者の賃金と資本家の収入の合計、すなわち、v+mで表現される。労働者はvで消費手段を購入して生活し、資本家はmで消費手段を購入して生活する。当たり前の話だが、市場で消費手段を購入した労働者のvは再び資本家の手に還流する。資本家はそのvでふたたび労働者に賃金を支払い、再生産過程が始まる。ご覧のとおり、資本主義体制はバランスよく持続される。予定調和している。
だが、一八一五年、一八一八年~十九年にイギリスで恐慌が発生。自由競争のままで資本主義は予定調和して発展する、そんな古典経済学の楽観論に対して、シスモンディの批判が登場する。
「資本蓄積論」第二篇 ローザ・ルクセンブルグ著、長谷部文雄訳、青木文庫(中巻)、1978年4月1日第一版第十刷
シスモンディの批判の要旨はこうである。
資本家が手にした剰余価値mを、資本家が消費手段に費消しないで、その一部を資本の蓄積に、つまり、拡大再生産に投資すればどうなるか。実際、資本制生産は、消費に対して何らの顧慮もなく自由競争の下、無制限に生産物が生産されている。しかし、拡大再生産された生産物の販路はどこにあるか。資本の蓄積によって、社会の生産を無限に高めることはできる。だが、社会の消費はどうか? 生産物を消費する貨幣はどこにあるか? 過剰生産のパニックによって、労働者の生活はますます悲惨な状態になっているではないか。
シスモンディを引用しながら、ローザ・ルクセンブルクのテーマが明らかになってくる。すなわち、ローザのテーマは、常に拡大再生産される生産物の販路とそれを購入する貨幣の問題を明らかにすることであった。まあ、噛み砕いて言えば、そんなにたくさんなものを作って、誰がそんなにたくさん買い物するの? そんなにたくさんなお金はどこにあるの?
それに付帯する問題で、ツガン・バラノフスキーの理論へのローザの批判が注目される。この理論の概略を知るためには、面倒な話だが、マルクスの「資本論」第二巻に展開された社会的総資本の再生産と流通の表式について説明しなければならない。ただ、もう四十年以上昔に読んだ「資本論」のおぼろげな記憶をたどって言語化するので、ほとんど曲芸に近い。危ない話だ。
さて、いつの時代でもそうだが、人間労働の総生産物は生産手段の生産と消費手段の生産の二つの部門に分類できる。大局的にみれば、歴史を通じて人間の生産力は増大しているが、その基本的な原因は、生産手段の改良だった。新たな生産手段によって生産力は増大した。石器から鉄器への移行、産業資本が成立した蒸気機関の動力による機械制大工業へ。
生産手段の生産を第一部門、消費手段の生産を第二部門として、資本制生産の年間の社会的総資本の再生産と流通を表式で表わすと、こうなる。但し、生産手段は、機械・労働用具・建物・役蓄等の固定資本、原料・補助材料・半製品等の流動不変資本をいう。また、cは、不変資本(生産手段)、vは、可変資本(労働賃金)、mは、剰余価値(資本家の収入)とする。剰余価値率は100%とする。数値はポンドでもドルでも、あるいは億円でもいい。価値の抽象的割合を表現しているだけである。
第一部門 4000c+1000v+1000m=6000(生産手段)
第二部門 2000c+ 500v+ 500m=3000(消費手段)
これは毎年同じ規模の生産、所謂単純再生産を繰り返す場合の、表式である。ここで大切なことは、第一部門の1000v+1000mが、第二部門の2000cと等しくなっていることである。第一部門の労働者と資本家の合計2000は、第二部門の消費手段200を購入して生活し、第二部門の資本家はその2000で第一部門から2000の生産手段を購入する。尚、第二部門の労働者と資本家は合計1000で消費手段を購入し、第一部門の資本家は残る4000の生産手段を同じ部門間で売買する。結果は、同じ規模で翌年も再生産が開始される。
資本の蓄積、拡大再生産の場合はどうか。拡大再生産の場合はこういう表式で表現される。
第一部門 4000c+1000v+1000m=6000(生産手段)
第二部門 1500c+ 750v+ 750m=3000(消費手段)
そこで資本家は1000mの剰余価値のうち、500mを自分の生活のために消費手段を購入し、500mは資本蓄積して拡大再生産した場合を、表式で表現すると、こうなる。
第一部門 4400c+1100v+500(資本家の消費元本)=6000
第二部門 1600c+ 800v+600(資本家の消費元本)=3000
合計 9000
すると、翌年の社会的総資本の結果はこうなり、拡大再生産が成立する。
第一部門 4400c+1100v+1100m=6600
第二部門 1600c+ 800v+ 800m=3200
合計 9800
そして、この拡大再生産の表式を無限に繰り返していくと、無限に資本蓄積が実現される。
ツガンはこう言っている。
「生産拡張が実際に無限であるならば、吾々は、市場の拡張も同様に無限だと仮定せねばならぬ。けだし、社会的生産の比例的配分のもとでは、市場の拡張のためには、社会が自由にする生産諸力以外には何らの制限もないのだから」(363頁)
ツガンによれば、周期的な恐慌は、生産の拡大の際に社会的生産の比例配分の均衡が守られないから発生するのであり、表式に従って処置されれば、資本主義生産は紙の上でと同じように再生産過程を無限に繰り返す。しかし、一歩譲って、「均衡」が守られなくても、価格変動や、周期的な恐慌とその回復によって、資本主義的生産も現実的には一定の「均衡」を保っている。だから、表式どおり、資本蓄積も無限に前進していくだろう。(366頁)
これに関して、ローザの興味ある発言を引用しよう。
「資本の無制限な蓄積を認めるならば資本の無制限な生活能力をも証明したことになる、ということは明白である。蓄積なるものは、生産拡大の、労働生産性の発展の、生産諸力の発達の、経済的進歩の、独自的・資本制的な方法である。もし資本制的生産様式が生産諸力の増大すなわち経済的進歩を無制限に保証することができるとすれば、資本主義は難攻不落である。そのばあいには、科学的な社会主義理論の最も重要な客観的主柱は崩壊し、社会主義の政治的活動すなわちプロレタリア的階級闘争の思想内容は経済的事象の反映たることをやめ、社会主義は歴史的必然たることをやめる。資本主義の可能性から出発した論証は、社会主義の不可能性に到達する」(380~381頁)
ということは、ローザは、経済学によって、社会主義革命の必然性を論証しようとしたのだろうか? あるいは少なくとも、社会主義社会に転化しない限り、資本主義の矛盾は解決できないことを論証しようとしたのだろう。
ここで芦屋芸術の「ローザ・ルクセンブルク読書会」第六回を閉会する。今回は、マルクス経済学の中でも、非常に難解なところにチャレンジした。次回まで、さらば。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。