近頃、ボクは読もうと思って本棚の片隅に立てたまま、長い間居眠りしていた本を、読み始めた。長い間、そう、彼の睡眠時間はもう半世紀近くなっている。
ギリシア喜劇全集第一巻 訳者代表高津春繁 人文書院 昭和47年8月10日重版発行
ちょっと説教臭い話だが、人間、死ぬまでにやりたいことをやった数よりは、やりたくってやれなかった数の方が、はるかに多いのでは? これって、裏を返せば、たいがいの人は、やりたいことよりやりたくないことを、毎日やっていると言っていいのかも?
例えば、ボクは読書が好きで、読もうと思って買っていたこの「ギリシア喜劇全集」を読まずに本棚に立てたまま、毎日好きでもないビジネス文書やマニュアルや業界新聞のようなものを額に汗して読み続け、今、やっと、この本の扉を開いたのだが、そしてまるで長い悪夢のような話だが、既に四十六年の歳月が流れていた!
この本には、アリストパネスが書いた六篇の喜劇が翻訳されている。
「アカルナイの人々」 紀元前425年 レーナイア祭で初演
「騎士」 紀元前424年 レーナイア祭で初演
「雲」 紀元前423年 大ディオニューシア祭で初演
「蜂」 紀元前422年 レーナイア祭で初演
「平和」 紀元前421年 大ディオニューシア祭で初演
「鳥」 紀元前414年 大ディオニューシア祭で初演
ご覧の通り、これらの喜劇が上演されて二千四百年余りの時が経っている。だが、その脚本が言葉で残っている。それだけでもとてもステキなことではないか! 言うまでもないが、作品の成立史や解説は、実際にこの本を読んでいただきたい。詳細にわたって記載されている。ボクのような門外漢のよくするところではない。
ただ、一読者の感想に過ぎないけれど、この当時のギリシアのアテーナイの民主主義は、古代奴隷制の上に成立したものであり、そしてもちろん、奴隷には選挙権はないという限界はあるのだが、それにしても、アテーナイの民主主義における言論の自由には眼を見張るものがある。
これらの喜劇が書かれた時代は、アテーナイはスパルタとの間でギリシアの覇権を争う、所謂ペロポネーソス戦争のさなかだった。アテーナイの主戦論者は、基本的には、戦争を遂行することによって利益を得る商業・製造業者を土台として、デマゴーグと激しいアジテーションで市民を煽動し、特に農民には多大な犠牲を押し付けていた。
アリストパネスは、主戦論者の代表格、独裁者クレオーンを彼の喜劇の中で批判し、とことん罵倒して、反戦・平和を主張した。戦時下の独裁者を徹底的に批判し嘲笑し喜劇化すればどうなるか、さまざまな歴史をちょっとかじるだけで、おおよその見当は付く。しかも、ギリシア悲劇や喜劇は国家行事の祭りの中で開演され、一般市民のみならず、時の独裁者クレオーン以下権力者集団の面前で演じられるのだ! しかし、アリストパネスはその生涯を無事まっとうした。これだけでも、民主主義におけるものすごい言論の自由ではないか。
そのうえ、アリストパネスの喜劇では、ギリシアにおけるゼウスを中心とする神々を槍玉に挙げたり、ソクラテスを中心とする新思想を笑劇にする。月並みではあるが、同時にまたもっとも困難なことでもあるが、アリストパネスは平和を愛し、日々の生活が楽しく豊かであることを心から追い求めた。その結果、この日常生活を疎外し破壊するすべての存在者、それが独裁者であろうが神であろうが思想であろうが、彼等を徹底して厳しく批判し、喜劇化し、大笑したのだった。
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