歳をとるということは、おそらく、今まで身に着けてきたさまざまな衣装が、晩秋、木の葉が散り落ちていくように、すっかり落ちて、本来の赤裸な姿に帰っていくことではないか。もちろん、歳月の中で、織りあげ、紡いできた夢や虚構もすべて、落ちてゆく。そこには、自分の脳裏に残った、核になる記憶、記憶の原風景とでもいうものが、まるで残月のごとく浮かんでいる。
「広島巡礼」 亀沢深雪著 新地書房 1984年8月1日発行
この書は、「広島巡礼」、「流灯」、「長崎望郷」、「遠い道」、以上四篇の作品で構成されている。これに先立つこと八年前、著者は「痛む八月」という小説集を世に送っているが、この小説集を書いたそもそもの根源、著者自身の生活の核になる記憶、心の虚空に浮かんだ残月ともいえる記憶の原風景をこの書は表現している。もちろん、言うまでもなく、著者が十七歳の時、広島市中区舟入本町の自宅で母と共に被爆した記憶を核にして、戦前・戦後の余りにも痛ましい生活の事実とそれに対応した著者自身の気持が、なんのためらいもなく一切の飾りたてた衣装を落葉のように捨てた、ほとんど透明な水脈ともいえる文章で語りかけている。
著者は「あとがき」で、この書を、「自分史のようなもの」と言っている。だが、ボクには、広島の原爆で人間の姿を破壊されてこの世を去った人々、その後、原爆症で苦しみながら死んでいった人々、著者が愛した妹や父や母を原点にして、それらの死者の言いがたい苦痛と悲しみを言葉に結晶した書ではないか、著者自身も原爆症で苦しみあえぎながら、それにもかかわらず発語した名状しがたい愛の書ではないか、読み終えて、本を閉じた時、そう思った。
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