後藤みな子の「樹滴」

 ほんとうはこの著者の作品集「刻を曳く」(河出書房新社、昭和四十七年八月発行)から読み始めるつもりだった。ネットで探し、値上がりして八千円余りしたが、注文した。だが、在庫ナシ、そんな返事が入った。同時に注文していた同じ著者のこの本は古書店から送られて来た。ボクが調べた限り、著者は戦争と原爆によって引き裂かれた家族を表現した二冊の本を世に問うている。驚くべき事だが、第一作品集「刻を曳く」が世に出てから第二作品集のこの本が出版されるまでおおよそ四十年の歳月が流れている。その理由もこの本を読めばわかる。

 「樹滴」 後藤みな子著 深夜叢書社 2012年7月15日発行

 緊密で、不思議な緊張感が漂い、書名のとおり、死と再生の樹液がひっそり全身にしみわたってくるような文章だった。おそらくそれは、もうすぐ九歳にならんとする主人公の香子(コウコ)の心に刻印された長崎の原爆投下による人間の<死>と<発狂>というふたつの不協和音が無気味に反響しているからだろう。そして同時に、この作品は、八篇の連作による<死>と<発狂>からの再生への激しい希求が秘められているからだろう。
 八月九日、浦上の兵器工場に学徒動員で被爆した兄、その二日後、兄を探しに出かけた母は原爆で壊滅した廃墟の中で彼の死をみとり、発狂して帰宅する。
 父は、戦時中、志願して軍医になり、ニューギニアの密林をさまよい続け、敗戦後、帰国する。彼は田舎の病院の医師になり「普通の家庭」を築こうとするが、意に反して、大学病院の院長になり、学部長、学長にまで上りつめる。
 兄が被爆死、母が発狂、父は家庭をかえりみず出世街道を選ぶ。四人家族の香子は、ひとり取り残されたまま、その後の人生を生きる。
 この香子が、歳至って、父の死と母の死をどのような思いで受容したか、死者への祈りとその魂の再生を主調音にしたレクイエムである。

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