石田雅子の「雅子斃れず」

 この著者は、一九四五年、十四歳の時、父の転勤にともなって東京から長崎に転居し、県立長崎高等女学校に転校、学徒動員で三菱兵器製作所大橋工場に勤務中、八月九日、原子爆弾に被爆した。

 東京の学校に在学中で長崎に転居しなかった兄穣一は、一九三八年から家庭新聞「石田新聞」を発行しており、すすめられて著者はこの家庭新聞に一九四五年十一月二十日から翌年三月二十一日まで計八回、病床の中で被災した時の手記を投稿した。

 「雅子斃れず」 石田雅子著 日本ブックエース 2014年7月30日初版第二刷

 もともとこの手記は、連合国軍最高司令官総司令部の検閲によって発行が禁止され、改稿した上で、一九四九年二月に長崎の婦人タイムズ社、同八月に東京の表現社から出版されている。原爆投下後すぐに書かれた十四歳の少女の手記で、生々しい状況がつづられているが、読みすすむうちに、どこか救われた気持がする。おそらくそれは、この少女が絶望の淵に立ちながら、最後まで希望を捨てなかったことに起因するのだろう。

 この書について、ふたつだけ書いておきたい。

 ひとつは、この本の著者に相似した境遇の人を書いておきたい。石田雅子は一九三一年二月十四日に生まれているが、一九三〇年八月二十八日に生まれた林京子について一言しておきたい。

 林京子はやはり父の勤務先の関係で上海に在住していたが、終戦末期、一九四五年に帰国、その四月に石田と同じ県立長崎高等女学校三年に転校している。そしてやはり石田と同じく学徒動員で三菱長崎兵器製作所大橋工場に勤務中、被爆した。

 林の場合、成人し、満を持して、この時の思いを一九七五年六月、「祭りの場」という作品に結晶する。まだ十代半ばであった彼女たちに起こった出来事を、そしてそれに対応する彼女たちの心情を見つめる時間を持つことは、決して楽しい時間ではないが、貴重な時間だ、ボクはそう思う。

 もうひとつ書いておきたい。この「雅子斃れず」の中で十四歳の著者は、あちらこちらで苦しみあえいでいる重傷の被爆者を見捨ててしまった、そう告白している。まだ幼い少女で致し方ないといっても、著者の心は奥深い場所で傷つき、その後、長い歳月にわたって罪の意識に苛まれたのではないか。所謂「原爆文学」を読んでいると、老若男女を問わず、このような出来事が無数に書かれていて、ボクの胸は痛んだ。いったいこんな戦争を誰が始めたのか。誰がいつまでも継続していたのか。そして、いったい誰が戦争で利益を得ていたのであろう?

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