ひょっとして人は、あるのっぴきならない出来事によって、自分の本来の姿を発見するのかも知れない。そして、その本来の姿を心の奥に大切におさめて、ふたたび生活を始めるのかも知れない。
「ヒロシマ・ノート」 大江健三郎著 岩波新書 1965年6月21日第1刷 1996年7月15日第68刷
ボクが何をいわんとするか、著者自身に語ってもらおう。この本の「プロローグ 広島へ」の冒頭にこう書いている。少し長くなるが引用してみよう。
「このような本を、個人的な話から書きはじめるのは、妥当ではないかもしれない。しかし、ここにおさめた広島をめぐるエッセイのすべては、僕自身にとっても、また、終始一緒にこの仕事をした編集者の安江良介君にとっても、おのおのきわめて個人的な内部の奥底にかかわっているものである。したがって僕は、一九六三年夏の広島にわれわれがはじめて一緒に旅行したときの、ふたりの個人的な事情について書きとめておきたいのである。僕については、自分の最初の息子が瀕死の状態でガラス箱のなかに横たわったまま恢復のみこみはまったくたたない始末であったし、安江君は、かれの最初の娘を亡くしたところだった。そして、われわれの共通の友人は、かれの日常の課題であった核兵器による世界最終戦争のイメージにおしつぶされたあげく、パリで縊死してしまっていた。われわれはおたがいに、すっかりうちのめされていたのである。」(本書2頁)
極論すれば、この本の原点はここに表現され尽くしている。月並みな表現になってしまうが、著書と編集者はわが子・我が友の生命の貴さに打ちのめされたままの姿で広島へと出発したのである。従って、著者たちが立っている生命の貴さに打ちのめされた場所からもう一歩先に出ると、つまり、彼の地に住んでいる他者に出会うと、言うまでもなくこの他者とは広島で原爆に被災した死者および生者のことだが、著者たちが激しい共振状態に陥ったとしても、むしろ人間の自然な姿だ、そう言っていい。
さて、本書第一章に詳細に報告されている通り、一九六三年夏、第九回原水爆禁止世界大会が共産党系のグループと社会党・総評系のグループに分裂したからと言って、著者は動揺しないばかりか、政治団体としての平和運動から一線を画して、さらに進んで被爆という事柄の真実に向かって激しく共振してゆく。ここから先は、各自この本を読んでご自分で考えていただきたい。
特に印象に残った二点だけを指摘しておきたい。
ひとつは、金井利博中国新聞論説委員の「原水爆被災白書」の作成を著者は応援しているが、はたしてそれは完成したのだろうか。一九四五年秋の米軍側原爆災害調査団の声明、≪原子爆弾の放射能の影響によって死ぬべき者はすでに死に絶え、もはやその残存放射能による生理的影響は認められない≫(本書138頁)、また、周知のとおり、サンフランシスコ講和条約が成立するまでの間、原爆関連の文献は進駐軍によって検閲・発禁処分されていた事実、米国に追随する日本政府も原爆問題に対して消極的だったこと、これらの状況を考えるならなおさら金井利博が提言する「原水爆被災白書」がぜひ必要だろう。まさかこんなことはないとは思うが、後日、歴史が捏造されないためにも。
もうひとつ。著者が紹介した「ひろしまの河」の活動について。余談になってしまうが、ボクの個人的な関心で、今年の一月から所謂「原爆文学」を中心にした読書をやってきたが、原水爆禁止広島母の会が発行するこの「ひろしまの河」に、所謂「原爆文学」を読んでボクが感銘した作家、正田篠枝、栗原貞子、山口勇子諸氏が名を連ねているのを知って、僭越ではあるが、一歩ヒロシマに近づいたような気持がした。トテモうれしかった。
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