先日読んだ福永武彦の小説「死の島」では、広島の原爆で被爆した主人公の女性は自分の被爆体験から一歩も外へ出ることが出来ず、心の内部では破滅した広島の市街を原風景にした虚無の世界に住み、遂に同居している女友達を道連れにして、自殺を図る。それも、現在住んでいる東京の家からわざわざ被爆した故郷の広島まで東京生まれの女友達と二人で出かけて、街をあてどなく歩いたあげく、宿泊した広島の旅館で多量の睡眠薬を二人で飲む。
彼女たちの共通の友達、主人公の男性は彼女たちが服毒自殺で一人は死亡、一人は昏睡状態だという電報を見て、彼女たちの入院している広島の病院に急ぐ。その途上、明け方広島駅へ着いた時、構内でアナウンスされた「ヒロシマ」(広島)という駅名が、「シノシマ」(死の島)、もちろんシノシマはこの本の題名だが、そんなふうに錯誤して彼には聞こえてくる。やはり虚構としての小説だから、読者にちょっとしたダジャレを弄してリップサービスしているのだろうか。
こうした被爆者の被爆体験によってその人の心を支配する出口のない虚無感を主題にした虚構、所謂小説とはまったく対極にあるのが、この本である。
「ヒロシマ日記」 蜂谷道彦著 平和文庫(日本ブックエース発行) 2012年7月25日初版第2刷
*この作品は、逓信医学協会発行の機関誌「逓信医学」第二巻第一号~第四号(昭和25年~27年)に十二回にわたって連載されたものである。
この本の著者は、一九四五年八月六日、広島市白島町の自宅で被爆するのだが、全身傷だらけのまま自らが院長を務める半ば崩壊した広島逓信病院へ駆けつけ、被爆者救済の医療活動を続けた。また、爆心からの距離によって被爆した患者の原爆症の症状が異なることを発見する。その間、五十六日間の体験を日録風に再現したのが、この作品である。
わかりやすい本で、言語を絶する広島の悲劇の中で、人間の心の真実が何の力みもなくたんたんと表現され、被爆した人々は被爆後どのような生活を送ったか、けっして虚構ではない、事実存在する被爆した人々は、いったいどのような時間を生きたのか、この本はその一端を教えてくれる。
この書を読めば、被爆したにもかかわらず、そしてほとんどすべてが壊滅した極限状況の中で、被爆者たちが人として健やかに、また、互いに助け合って一日一日をどのように生き抜いていたのか、ボクラはそれを学ぶことが出来る。ここには一点の虚無もない。虚構の虚無がのっそり座る場所はない。ただ、いまここに生きているそれぞれの人の一回限りの時間が存在している。
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