ブルーノ・ベテルハイムの「生き残ること」

 取り立てて言うほどのことではないが、この本は、訳者あとがきが一九九二年五月に書かれ、そして、一九九二年八月六日初版第一刷発行となっている。また、巻末のプロフィールでも著者はまだ健在で活躍しているように、読者は感じるだろう。だが、この本の著者は一九九〇年三月三十一日に八十六歳で自殺、その当時、既に物故の人だった。ただ、眼を凝らせば、本のカバーの裏面のプロフィールには一九九〇年死去と書いてあるのだが。

 「生き残ること」 ブルーノ・ベテルハイム著 高尾利数訳 法政大学出版局 一九九二年八月六日初版第一刷

 一九〇三年にウィーンで生まれた著者は、ユダヤ系オーストラリア人で、一九三八年春、オーストラリアがナチスドイツに併合された直後、自宅で逮捕されダッハウ強制収容所、次に、そこから移送されブーヘンヴァルト強制収容所に収容されるが、一九三九年四月二十日、ヒトラーの誕生日の特赦で解放され、アメリカに移住し、一九四四年、アメリカに帰化している。著者は三十代後半になって、ナチスの強制収容所で苛酷な重労働を強いられ、運良く出獄したあと、ほとんどの資産をナチスドイツに没収され、他国で亡命生活を送る、いったい何という人生だろう。確かに履歴を詐称してシカゴ大学で心理学の教授としてこの世を渡ったのだろう。そしてまた、精神分析医として患者の虐待やセクハラがあった、そのように私は聞いている。また、この本に収録された論文を見ても、強制収容所の被収容者と統合失調症の患者との並行性を論じているが、それならばあたかも統合失調症が環境要因で発症する印象を読者は持つのではないか、私はそのように思わざるを得なかったのだが、著者の人生を思えば、口角泡を飛ばして専門外の私が激昂することでもあるまい。

 もちろん、私は一九六〇年代のアメリカにおけるベトナム戦争に端を発した学生運動を批判する著者の論理にも、首をかしげる。しかし、亡命者としてシカゴ大学で教鞭を執る著者が、アメリカ政府を批判するためには築きあげたすべてを賭けなければならなかったろう。私なりに分析すれば、著者には無意識の抑圧が働いているのかも知れない。そして運動の沈潜化のため思わぬ解決方法を主張しているのかも知れない。興味のある方はこの本を読んで戴きたい。恐らく私が著者の立場なら、学生を批判はしないが、自らの地位保全のため、沈黙したであろう。

 では何故、私はこの分厚い本を最後まで読み通したのであろう。端的に言えば、本の書名、「生き残ること」、つまり、強制収容所から生き残ること、そしてその人の言葉を尋ねようとしたのだった。完璧な人はいない。すべて、欠陥だらけだった。少なくとも、この私自身は、長い人生、欠陥だらけだった。二千年前のユダヤ人がこう言っている。

 「あなた方の中で罪のない者が、まずこの男に石を投げつけるがよい」

 従って、私はこの本の中から引用したい言葉は多々あるが、その中から、この一行を選んだ。著者は強制収容所の経験を次のように定義している。

 「われわれの経験はわれわれに、人生が無意味であるとか、生きている者の世界が売春宿にすぎないとか、人は文化の諸強制の品位を下げながら、肉体の粗野な要求によってのみ生きるべきであるとか、ということを教えはしなかった。その経験はわれわれに、われわれが生きている世界がどれほど惨めなものであれ、この世界と強制収容所の世界との間の違いは、夜と昼の間のように、地獄と救済の間、死と命の間のように大きいのだということを教えてくれたのである。それはわれわれに、人生には意味があるということを教えてくれたーその意味を計るのがたとえどんなに困難であってもであるーわれわれが生存者になる前に可能だと思っていたよりもはるかに深い意味があるということを教えてくれたのである。そして、われわれが強制収容所の地獄を生き延びるほどに幸運であったという罪責感は、この意味の最も重要な部分なのであるーそれは、強制収容所の地獄でさえ、滅ぼすことができなかった人間性に対する証言なのである。」(本書443頁)

 最初に言ったとおり、ブルーノ・ベテルハイムは、妻の死の六年後、一九九〇年、八十六歳で自殺した。

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