この作品の舞台となっているN市のM団地、そしてMと言う川、その防波堤、その河川敷、確かにその河川敷にはブルーシートのテント小屋があちらこちらにあり、そこを住まいにしている人々がいて、また、一方、私は妻と友人たちとうちそろってバーベキューに興じた思い出があって、そのうえ、若い頃、M駅に向かってMという川にかかった比較的長い阪神電車の側道橋を西から東に向かって渡り、大阪の淀屋橋まで通勤した記憶までよみがえり、かつて鳴尾や甲子園に住まいした者として、この作品は、極めて強い印象を残した。
「私の青空」 清家忠志著 アミーゴ第80号 2018年11月末日発行
アミーゴ第81号 2019年5月末日発行
この作品は、言語による実験だ、そう言っても過言ではないと思う。というのも、一九九八年六月十三日、西宮市高須町の住都公団武庫川団地で実際に起こった殺人事件、所謂「西宮事件」をノンフィクションではなく、小説として表現したのだから。
事件は、鳴尾浜のテント小屋に住んでいる田中氏(小説ではゲンさんとなっている)が、夜中、若者たちに再三投石などによって小屋を襲撃され、ある夜、ついにたまりかねて犯人たちを追跡し刃物で十八歳の鳶職の男を刺し、男は死亡、十七歳の男子高校生に二週間のケガをあたえたものである。従来の所謂「ホームレス」が被害者として襲撃される事件ではなく、激昂したテント小屋の住人の被害者が反撃に出、その結果、加害者であった男が被害者として死亡する特異な事件だった。著者は、すべての登場人物を仮名にして、彼等の内面に迫り、事柄の真実を明らかにしようと、筆をとった。
この小説の前半は事件の真相を明るみに出し、後半になって主人公「ゲンさん」の裁判を支える市民団体「N市事件を考える会」の運動を描いている。この後半になって、著者も「私」として登場する。何故、著者がこの事件を小説として表現しようとしたのか、その答えも、詳細に書かれている。少し長くなるが、大切なところだと思うので、敢えて引用したい。引用箇所は、この運動の世話人代表であり、牧師でもある大神と彼の友人「私」との会話である。会話に出てくる「相川さん」は被告人「ゲンさん」の弁護人である。
「実はな、今君が言った何が目的の裁判所かというその疑問は、小集会の打ち上げ時に、俺自身も相川さんに問うたことなんだ。そこで彼は今言ったような裏話のようなことで説明してくれたんだが、理屈では判っていても得心出来てなさそうな俺の膨れ面を見て気の毒に思ったか知らん、最後にポツリと言ってくれたよ、本当の真実はフィクションでしか表せないとね」
「フィクション?」
「そう、創作文学で・・・小説ってことだろうな・・・」
「裁判所が残す速記録や膨大な公文書よりも、か?」
「公文書には一つ一つの事実は記されているだろうが、その事実を繋ぎ合わせても真実は生まれない、って言ったんだ。それどころか事実だけの積み重ねによって虚構を生むことだって出来るともね」(アミーゴ81号、28頁)
さて、この作品の結びで、大神と「私」との対話の中に、因果応報の話が出てくる。はたして、因果律は決定論か? この議論は、この作品の裏側に流れている隠れた主題なのかも知れない。
牧師の大神は、こう考えている。すなわち、過去は既に確定している。その線で起こる事物は動かしようがない。しかし、現在の自由意志で変えることが出来る。(アミーゴ81号44頁)
過去と未来の間に、現在、つまり自由意志で生きている時間があると言うことか。しかし、「私」はこう考えている。
私は神学的には人に自由意志はないとする奴隷意志派だった。(同書45頁)
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