この本の著者には単純な固定観念があって、その固定観念ですべてを解釈し、主張し、その固定観念以外の考え方や感じ方を批判、場合によっては極めて強く排除する傾向にある。また、特定の固定観念だけでもって現実を観察・理解するため、それぞれの現実の中で生きている人々が営んでいる具体的な生活には興味を示さない。だから、著者は、大衆は愚民だとヘイトスピーチして、恥じない。だが、この著者の執着している固定観念に反して、それぞれの人々が営んでいる具体的な生活が人間の本来の姿であって、この無数の人々の無数の具象性こそが、人間の生きている意味ではないか? 特定の固定観念ではなく、この無数の具象性こそが、人間の存在を証するのではないか? 少なくとも、七十年余り人生を渡ってきた私の眼には、そう映じているのだが。
「続・わが闘争」 アドルフ・ヒトラー著 平野一郎訳 角川文庫 平成29年6月25日4版
この本は、著者が政治的成功の結果を出し始める数年前の三十九歳頃、一九二八年に口述筆記されたと言われているが、前著「わが闘争」のように出版されず、草稿だけが残されたものである。だが、著者の基本姿勢には大きな違いはなく、最初に述べたとおり、私にはいささか乱暴な論理だと思えるが、著者の単純な固定観念、所謂「国家社会主義」ですべての政治・経済・文化を批判する。著者自身が神であって、他は臣民乃至奴隷だった。
彼の偏執狂に近い固定観念、その固定観念とは言うまでもなく、人間は自らを維持・繁殖せんとする「自己保存本能」によって生きていて、具体的な歴史の中では、その「自己保存本能」は民族の生存闘争によって表現される、すなわち、この世界は、言ってみれば、「自己保存本能」と「民族」、この二語に集約される。
従って、この著者は、民族の自己保存本能、これを指導・達成するのが政治家の仕事であると結論する。ここから、種族繁殖のために必要な食糧を獲得するため、一定の人口に対応した一定の土地が必要であり、自国の過剰人口を解決するために他国に侵出してその土地を収奪するのは正当な権利だ、そういう主張になってくる。古代の歴史を見ても、弱肉強食の生存闘争の世界であり、強い民族が弱い民族を侵略・収奪して奴隷化するのが、真理であり、強者の正当な権利なのだ。よって、優良なアーリア人種―ゲルマン民族―ドイツ人は、自国の過剰人口を解決するため、劣等なスラブ人、また、彼等を操作して不当な利益を上げているユダヤ人国際主義者ボルシェヴィキ、このロシアを中心とする東部へ侵出・彼等の土地を略奪して、直接ドイツ人が農業を経営し、ドイツが大国として繁栄するのは、正当な権利であって、同時に優良民族を将来にわたって生存させるための義務である。
ざっと彼の固定観念のアウトラインを描いてみたが、ひょっとして、こんなたぐいの浅薄な固定観念で他国を批判したり自国民を扇動している政治家や評論家やマスコミがこの現在に至っても、まだまだ大勢いるんじゃないか、ちょっと、不安な気持がしたのは、私ひとりではないのかも知れない。
ともあれ、この著者は、三十代に確立した政治的信念を四十代から五十代にかけてほとんど完璧に成就した希有なる人であろう。第二次世界大戦によって、彼の信念がどのように完璧に成就したか、優良民族ドイツ人の過剰人口解決のため劣等人種の土地を獲得するのは正当な権利だという信念はどのような結末を迎えたか、その真実は、読者各自の眼でしっかり確かめて戴きたい。
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