今にして思えば、敗戦後の荒廃した世に生を受けた私たち所謂「団塊の世代」は、小学校から一クラス五十人前後の教室で学友と競い合い、少しでも他人を押しのけて自分がいい位置に納まらんとして懸命に努力する、しかし、その戦に脱落した人間は後方に置き去りにされ、救いの手なんて無い、だから脱落した人間が脱落者グループを自然に形成していた。言うまでもなく、私も脱落者の一人だったが、どちらかと言えば、脱落者でグループを為すより、孤独を好んだ。
ざっとこういう次第だった十七歳の時にこの詩集を手にして一読、心は打たれなかった、そう記憶している。この度、吉本隆明の「高村光太郎」(飯塚書店版)を読んで、ならばもう一度、本箱の片隅に眠っていたこの詩集を抜き出し、二読三読した、余りに熟読しすぎて、何が何だかわからなくなってしまった。
「高村光太郎詩集」 高村光太郎著 岩波文庫 昭和41年8月10日第16刷発行
この詩集を読む前に、おそらくどこかで「道程」や「冬が來た」、「火星が出てゐる」、「ぼろぼろな駝鳥」など、また、「智恵子抄」の中の数篇くらいは既に読んでいたと思う。その頃、脱落者の私は、学校のお勉強は一切放棄して、詩のアンソロジーや解説書などをチョコチョコ読んでいたから、解説書にはこの辺りの詩が解説されていたのだろう。
確かに一生クセは直らないのかも知れない。私は昔から何事に付け全体だけではなく細部にもこだわり続ける性癖があり、例えば、こんな表現の在り方に、ということは、この表現を支える作者の心の在り方に、ちょっと引っかかってしまうのだった。
貧血な神經衰弱の青年や
鼠賊のやうな小惡に知慧を絞る中年者や
溫気にはびこる蘚苔のやうな雑輩や
おいぼれ共や
懦弱で見滎坊な令嬢たちや
甘ったるい戀人や
陰險な奥様や
皆ひとちぢみにちぢみあがらして
素手で大道を歩いて來た冬(「冬の詩」から。本書66頁。1913年12月)
この詩は、高村光太郎三十歳の時にものしているが、これと同様な事柄の表層を捉える人間認識が、人間の正の面であれ負の面であれそれを問わず、もちろん上掲した言葉は他人の負の面を捉えた言葉だが、この辺りの高村光太郎の視線が、私のような競争社会からの脱落者にしてみれば、何と言えばいいか、とても高い位置に存在している人だな、そう思念した。
それでは、この詩人が立っている高い位置は、どのような言葉で表現されているのだろうか? 高村光太郎が智恵子との関係をこういう言葉で表現している。高村が三十歳頃に書いた二篇の作品の中から引用してみる。
私は人から離れて孤獨になりながら
あなたを通じて再び人類の生きた気息に接します(「人類の泉」から。本書201頁。1913年3月。
そして世間といふものを蹂躙してゐる
頑固な俗情に打ち勝ってゐる
二人ははるかに其處をのり超えてゐる(「僕等」から)。本書203頁。1913年12月。
細かいことを言うようだが、私はこういうふうに表現された言葉にも、ついこだわってしまう。果たしてこれが愛だろうか? 詩人や芸術家はこんな愛し方をするのだろうか? 愛に何か大義名分めいたものがいるのだろうか? それとも、智恵子を通じて、過去のデカダンスな生活を克服できた自分を、言葉余って、このように表現したのだろうか?
周知の通り、智恵子は統合失調症を発症し、一九三五年二月、南品川ゼームス病院に入院、一九三八年十月五日、この病院で病没するのだが、例えば、病んだ智恵子を高村光太郎はこのように表現する。
もう人間であることをやめた智恵子に(「風にのる智恵子」から)。本書216頁。一九三五年四月。
気になる一行である。統合失調症の人をこのように理解する時代だったのだろう。だから高村光太郎もその時代感覚に自分を重ねて極めて自然にこういう一行を出したのだろう。
人間商賣さらりとやめて、
もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。(「千鳥と遊ぶ智恵子」から)。本書217頁。一九三七年七月。
この三行も先の一行と同一平面で書かれている。統合失調症の人を最終的には隔離する考え方の時代だったのだろう。どんなに愛しあっていてもこの病を発症した人は、自宅から連れ出されて隔離されたのだろう。余談になるが、日本はいまだ現在に至っても、精神を病んだ人を閉鎖病棟に隔離する、世界のトップランナーであろう。
ところで、戦争詩は詩ではないのか? 戦争詩はすべて価値がないのか? 過日、私はヒトラーの「わが闘争」を読んで「芦屋芸術」のブログに読書感想文を書いてみたが、確かに本が分厚くて面倒かも知れないが、ナチスドイツの思想を知るには必読書だろう。私は今まで余り戦争詩は読んでいないが、この詩集を何度も熟読して、ふとそう思った。本書の「あとがき」で、編集者は出版社と打ち合わせをし、著者のアトリエにも何度も足を運んで、一九四〇年頃までに書かれた詩を編集した、そうなっている。昭和二十九年から三十年の話で、翌年、高村光太郎は永眠した。
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