「致死量」の周辺にて

 私はこの二、三日の間、かつてかかわった、もう三十年くらい昔の話だが、「KAIGA」という詩誌を再読・熟読した。かかわったといっても、ほんの一年くらい、それは一九九一年のお話だった。概略は、この間「芦屋芸術」のブログに書いた文章を読んでいただければ幸いである。

 昔話に過ぎないといってしまえば一言もないが、私は、とても短い月日にもかかわらず深く付き合った金高義朗という詩人について、私の知っている小さな時空に限られてはいるけれども、書き残しておきたかった。余程のことがなければ、金にもならない、書いた言葉を食うわけにもいかない、まして、言葉にのめり込んで詩を書き続けたりしたら、身辺にヒシヒシ音たてて生活苦という背後霊が押し寄せてくる、金高はそれを体感している貴重な詩人だった。私は決して体験主義者ではないが、やはり、体験しなければ本当にはわからない事柄は、この世にある。そういう意味でも、死と詩は両義的に成立している。

 何故かしばらくして別れて以来、私には彼の消息は知れず、その生死もわからない。といって、私は歳をとったので懐かしさの余り懐古談をオシャベリして気晴らしでもするつもりはない。あの時、金高を通じて「KAIGA」に私は詩を発表しているのだが、彼も私もたがいに強く引き合って、うまく表現は出来ないが、人間の本質がズルリと露呈してテーブルの上に広がっている原稿用紙に横たわっていた、あるいは、こうも言えようか、自分の内臓が血に濡れた言葉になって丼の中へあふれ出た、こんな状態が持続したのだった、一年くらいで終息してしまったが。

 私は思うのだが、自分の脳や内臓がグチャグチャしながら言葉になって食卓に置かれた茶碗やお皿に盛られる光栄な時間は、それ程長く持続しないだろう。私の場合、せいぜい一年余りで、頭がひからびきって、もう内界へは向かわず、外界をフラフラするのだった。

 いったい金高はどうしているのだろう。鼻でもほじくっているのだろうか。鼻毛が言葉になると主張するのか。一九九一年に発行された三冊の「KAIGA」に掲載された詩をもとにして、翌年、私は「致死量」という詩集を出版した。はたして私はこの詩集を彼に贈呈しただろうか。「KAIGA」の編集長に進呈しただろうか。心もとない話だった。この詩集は手もとにもう数冊しか残っていない。

 金高よ、金高義朗よ、もし私のこの文章を読んでいるなら、あの頃、脳や内臓の裂け目からひっそりとあふれ出た言語肉でつづられた「致死量」を私が君に贈呈したかどうか、メールしてくれ。アドレスがわからない? ヨシッ! 芦屋芸術のホームページの私の「プロフィール」を見れば、わかる。

 分水嶺まで

第一章

言葉のまわりが

おのずからしんとしている

分水嶺がある

水は涸れ

墨のにじみも乾いて

ぽたりと句点がうたれた

やがて一碗に盛られた

ひとつの言葉をめぐって

夕闇が落ちてくる

箸を置き あらゆる修辞を控えて

一碗を洗う

言葉のまわりが

おのずからしんとしている

差しのべられた手のひらを

礼を尽し ねんごろに拒絶していた

たとえば眠りの極みが

真昼の覚醒から

ひっそり退いているように(詩集「致死量」24~25頁・1992年10月25日発行)

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