トロツキーの「文学と革命」第Ⅰ部を読んだ。

 私は不勉強な人間なので、わずかな読書量・経験量で考えているだけなのだが、所謂「トロツキスト」という奇妙なレッテルが私の若い頃、一九六〇年代から七〇年前後にかけてちょっとしたハヤリ言葉だった。というよりその頃まだ主流だった一国社会主義論=スターリン系の社会主義者・共産主義者たちから世界革命を目指す所謂「新左翼」を「トロツキスト」と批判する、いやむしろ罵倒する常套句だった。世界革命を目指す極左集団「過激派」に投げつけられた蔑称だったろう。だがこれは日本における特殊な状況ではなくて、一九二〇年代後半から既にこの「トロツキスト」という言葉は存在していたようだ。

 それはさておき、この度、本書を読み直していて、冒頭の第一版への序文にこんな発言をしている著者に出会い、はたして彼が恐るべき極左集団「過激派」の元祖なのか、いぶかしく思った次第であった。

 「文化は経済の液汁によって養われているので、文化が成長し、多様化し、繊細になろうとすれば物質上の余剰が必要である。」(本書2~3頁)

 この文章を読んでいて思い出すのは、トロツキーの革命思想には、現在の資本主義よりもより豊かでより自由な世界を実現する、そのための戦略・戦術を緻密に構築する強い姿勢があったのではないか、ボンヤリとした昔の記憶ではあるが。つまり、社会主義社会を実現するためにはまず第一に資本主義よりも短い労働時間で生産力を増大し、物質的な豊かさを達成すると同時に人々が文化を楽しむ自由な時間を作らなければならない、そんな平明な思想が。

 「矛盾の本質は一つである。芸術も含めて、精神労働は肉体労働から隔絶しているが、これはブルジョア社会が産んだものである。それに反し、革命は肉体労働者の事業として現われた。革命の終局的任務の一つは、この二種の人間活動形式の疎隔を完全に克服することにある」(本書4頁)

 ここにも先に述べたより豊かでより自由な世界の創造への革命家トロツキーの思想の根源が描かれている。

 「文学と革命」第Ⅰ部 トロツキー著 内村剛介訳 現代思潮社 1969年5月10日第一版

 著者はまた、近代芸術に対してこのように述べている。

 「近代芸術は<中略>支配階級の余剰と余暇の上に成育したのであり、今も彼等に養われている。」(本書37頁)

 私も、基本的にはその通りだと思う。著者のいう近代社会、つまり資本主義が確立した社会において芸術活動によって生活を持続させようとすれば、その作品を商品として販売して貨幣を手にしない限り、芸術家は餓死するだろう。従って、彼等は意識しようがしまいがその時代の現実に迎合とまではいわなくとも、少なくとも正確に応答した作品を作らざるを得ない。また、言うまでもなく、それ以前に、彼等自身この現実の中で生まれ、育ち、時至って芸術作品を創造するのであって、いかに超現実の前衛的作品といえども、その時代の現実のすべてから100%の超越はできないだろう。否。現実の中に存在する矛盾からの超越を志向するのが真の超現実の姿ではないだろうか。もちろん、こんなことは私のような不勉強な劣等生が指摘するまでもないのだが。さらに付言すれば、古代奴隷制や封建社会に比較して、資本主義社会は未曾有といっていい豊かな文化を創造した。もちろん、その背景には科学の発展等による生産力の増大によって前時代とは比較を絶した経済の繁栄を実現し、著者の言うとおり「余剰と余暇が成育」したからだろう。

 この本は、一九一七年のロシア革命から一九二〇年前後までに発表されたロシア文学の作品を中心にして批評した文学論だが、通常の文学論ではなく、ロシア革命からプロレタリア独裁の道を歩んでいる途上、社会主義社会を確立しプロレタリア独裁が消滅するまでの過渡期に発生する文学とはいったいどのようなものなのか、この問いが軸になっている。

 「プロレタリア文化は今日存在しないばかりか将来においてもあり得ないだろう」(本書171頁)

 実際、革命を主導するプロレタリアには文字による文学を創造するには、余りにも苛酷な動的なダイナミックな革命運動の最中で生命を賭して働いているのだった。そこには文学を創造する時間や余裕もまた必要さえもなかった。従って、プロレタリアが自分自身を否定してプロレタリアを消滅させ階級を死滅させて社会主義社会に至る過渡期には文字によって詩が作られるのではなく、革命運動そのものに最高の詩があるのだった。トロツキーはこのように表現している。

 「ブルジョア革命とは対蹠的に、プロレタリア革命は階級としてのプロレタリアートの存在を、可能な限りの短期間に廃絶せしめることを目的としている。」(本書180頁)

 ここから言えることは、自らの階級を廃絶するための運動の渦中にあるプロレタリアではなく、彼等の同伴者、革命運動に感銘しそれを表現せんとするブルジョア文学に精通した小ブルジョア・インテリゲンチア等を中心にして革命的な詩が成立する可能性があるのだろう。だから、革命運動に共感する小ブルジュア・インテリゲンチアの作家たちを思想弾圧してはならない、こういう結論がやって来るのだ。おそらく彼等の作品が将来成立する社会主義社会の文化の基礎・肥やしとして新しい芸術作品が創造されるに違いあるまい。

 巻末の年譜によれば、一九二八年、著者は権力闘争に敗れソビエト連邦によってアルマ・アタに追放されている。そして、一九四〇年、スターリンの刺客によってメキシコに亡命していた著者は暗殺された。かくして永続革命は幻影に終わったのだろうか?

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