なぜこの作家の作品を読み直そうと思ったのか、理由は二つある。
まず、過日読んだイヴリーン・アンダーヒルの「神秘主義」の中で、神秘主義詩人として高く評価されていたこと。
次に、二十代半ばで愛していた女性ベアトリーチェが二十四歳の若さで他界するのだが、その後、この作家は彼女との所謂「愛別離苦」をどのように表現したのか。
このような関心が私の中で強く働いて、取り敢えずこの作家が二十代後半に書いた初期の作品を開いた。
「新生」 ダンテ著 野上素一訳 筑摩書房 1967年5月15日初版第16刷
この作品で読んだ限りでは、著者のベアトリーチェへの愛は、内面の愛であり、通俗的表現を使えば、「片思い」だと言っていいだろう。また、現実から言えば、彼女は人妻であり、子供もあり、二十四歳で他界するが、その間、ふたりの間には積極的な接触はないようだ。また、著者はベアトリーチェへの崇高な愛ゆえに、むしろ積極的な接触を断念していたのではないか。つまり、現実から距離をおいた虚構としての作品から見れば、著者は肉欲を超越した純粋な愛、神的愛を言語によって表現せんとしたのではないか。従って、ベアトリーチェの死後、言うまでもなく彼女の肉体は消滅するわけであるが、ここから、神的愛の象徴「ベアトリーチェ」とこの世の愛の象徴「窓辺の婦人」との内的葛藤が描かれたのではないか。
その葛藤を、ダンテはこのように描く。
汝らの移り気は私を考えこませ、
私をひどく驚かせるので、汝らを
凝視るあの婦人の顔さえ恐ろしく思う。(本書339頁)
ここで言われる「汝ら」とは詩人の両眼であり、「あの婦人」はこの世の愛の象徴「窓辺の婦人」である。
そして内的葛藤の末、
「理性に逆らってその虜となるのを許した者にたいしていだいていた願望を悲しく嘆き始めて、そのような邪悪な願望を追い払って、私の想いはことごとく、そのいとも高貴なベアトリーチェへ向かった。」(本書341頁)
ダンテの文章を読んでいると、いつのまにか彼の内面劇を見ている、私はそんな気持になった。肉欲や激情と理性、夢や幻想と現実が交錯する言語世界だった。この作品はあたかも晩年の「神曲」の序曲のような響きがあった。
ダンテは末尾の一節で、こう書いている。
「私の生命がまだ何年か齢をたもちうるならば、かつていかなる婦人についても書いたことのないような詩を彼女について書いてみたいと思ったのである。」(本書344頁)
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