去年の九月十日の「芦屋芸術」のブログに、私はビンスワンガーの「妄想」の読書感想文を書いておいた。その際、ビンスワンガーの後期に書いた「妄想」の考え方、つまり、精神分裂病を現象学的に解析する方法をより精度に展開したこの本をいずれ読もうと、私はそう思っていた。
「自明性の喪失」 W・ブランケンブルク著 木村敏、岡本進、島弘嗣共訳 みすず書房 2001年6月20日第11刷
この本の初版は一九七八年七月十日に発行されている。また、原著は一九六七年に書かれ、一九七一年出版されている。ちなみに、原題は「自然な自明性の喪失。症状に乏しい分裂病の精神病理学への一寄与」、こうなっている。
なぜわざわざこんな年代を確認しているのかといえば、この書の中で、ハイデガーの「世界内存在」及びそれに関連する「存在と時間」に展開されたさまざまな概念、フッサールの「判断中止」や彼の現象学的用語が頻出するからだった。私はこの著作を読んでいて、思想の歴史的流れのような感慨を覚えた。現在の精神医療の専門家の方々はこうした用語を駆使して統合失調症を解析しているのだろうか。
それはさておき、この本は寡症状性分裂病(単純型分裂病・破瓜病)の精神病理学的・臨床的位置づけを追求したものだった。そのため妄想型の患者ではなく単純型の患者を対象として現象学的分裂病論を展開した。アンナ・ラウ(仮名)という女性の患者で、職業は店員で二十歳。睡眠薬を七〇錠飲み自殺を図ったが未遂に終わり、著者の患者として診察したのだった。結局最後は再度自殺を図り患者アンナは死去している。この間、著者が診察した限りのアンナの告白を資料として、現象学や存在論を哲学的基礎に据え、アンナを分析する。ただ、アンナ自身が語った自己分析、「普通の人ならだれでも持っている自然な自明性を私は喪失している」、こういった趣旨を勘案すれば、おのずと哲学的基礎との共通な地平が見えてくる、そう言っていいのだろう。すなわち、人間が本来生きている共通な場所から彼女は疎外されているため、生活の世界で誰もが持っている自明性・コモンセンスを彼女は喪失し、常に生活の世界の外に立って疑問に苛まれ続けなければならない。彼女にはどういった疎外が現象学的分裂病論から発見されたのか。以下に簡単に列挙しておく。
- 1)先験的完了態からの疎外
- 2)時熟からの疎外
- 3)自己の自己性からの疎外
- 4)間主観性からの疎外
付言すれば、間主観性からの疎外は、生活世界の共同性からの疎外であり、言うまでもなく家族を中心にした患者の生活史の調査を綿密にしなければならないだろう。
この本に書かれていることは、精神医療従事者が分裂病の患者に接するときの基本的な構えに益するものであって、病因を究明したものではなく、もちろん未だ統合失調症の病因はさまざまな仮説があるにすぎないが、また、積極的な治療行為に役立てることもできないだろう。ただ別な意味で私のような精神医療従事者でない門外漢にも教えられることは多々あるだろう。すなわち、精神とは何か、そして精神を病むとは? こうした問いのさなかに近接することが一般の読者にも出来るだろう。
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