さて、ここでT氏のY研究所における最後の講義のあらましをご報告しておきたい。興味深いだけではなく、心の底に強い印象を残し、少なくともその後の小生の人生の航路を転換させたことだけは告白しておきたい。出来得るなら一人でも多くの人に彼の研究成果をつぶさに知っていただき、ぜひ日々の生活にお役立ていただきたいのが小生の切なる希望である。
能書きはこれくらいにして、ただちにT氏の魔訶不思議な講義、すなわち常に詩的表現で提起された研究論文、ほとんど芸術といっていい崇高なる理論、それはざっとこんな具合だった。―
いいですか、ここですよ。
よくごらんになってください。
もっとです。もっと、じっと。
ホラホラ。音が出る。接触すると、
すべての部位から音が出ています。
あなたの、眼と、耳を強く意識して働かせるのですよ。
ねえ、ホラリン、そんな音かな。
ゆっくり差し込むのですよ。
無理しちゃダメだ。
見本をお見せするので、よく研究して。ホラホラ。こうです。
唇の奥に人差指を突き入れると、
ポコリン、ボー、ボー、そんな音がする。
これをとりあえず、体内接触音、
そう規定しておきましょう。
この場合、唇と人差指は、
体内音響装置と規定されます。
この問題と同時に、こいつはどうでしょうか。
玄関ドアがスーと静かに開いて、また、静かに閉まることがある。
何故か。
研究の結果、この玄関ドアを移動透明体が通過した、故にドアが開閉した、そう結論されました。
この詳細と論証は次回の講義で明らかにされるでしょう。
ハイ、きょうはここまで。
今書いているこの報告書の表題を小生は「最後の講義」とした。そのいきさつはこうだ。
T氏の講義は常にマンツーマンだった。日時は一定ではなく、不規則というか、ときたま、任意に、気が向けば実施するのだった。彼の私宅で、会員はそれをなぜかY研究所と呼んでいたが、いきなりラインで予定を送信して、例えば金曜日の夜八時から始められた。
上述した講義の後、T氏は失踪した。以来現在まで姿を現していない。従って小生は「最後の講義」と題してご紹介に及んだのだった。一日も早いT氏との再会を小生はこいねがっているものである。
いや、ちょっと待て。違う。そうじゃない。違う違う。君だけには正直に話そう。T氏は自ら移動透明体に変身して小生の中に入り込んだのかもしれん。ひょっとしたらY研究所の所在地は小生の体内のどこかに転居したりして。ならば、さてどこだろうか。心臓かもしれないし、あるいは肝臓、いやいや前頭葉45野あたりかそれとも右手の小指か。それともやはり常に全身を移動している公算が高いが、いずれにしても我が体内のどこかに位置し、研究者T氏は流れ流れて大腸や前立腺、果ては左足の親指なんかと激論しながら余生を絶対的真実の探求に捧げているのかもしれん。もはや透明体になって暮らしている彼ならやりかねない。きっとそうだ。きっと、だ。そうだから、暑かったり寒かったりして不快な雑音が絶えないこの世になんかもう金輪際出てこないだろう。間違いない。きっとそうに違いない、今なら小生にもわかる。雑音への未練? そんなものさらさらありゃしない。この世なんて糞くらえだ!
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