あちらこちらの街角や路地を歩いていた。果物屋の前を通り過ぎるとき、二人の男女が店先でしゃがんで、顔を彼の方へもたげている。男が立ち上がって中腰になり、女を指さしながら彼に話しかけてきた。
「この子があなたと一緒になりたいと言ってきかないんですが……」
見ると、男は六十前後で、どうやらこの店の主人のようだった。女の方はといえば、この男の娘ではないだろうか、三十代半ばくらい。彼の亡妻の若い頃をどこか彷彿させるものがあった。
「この子があなたを好きだというんです。あなたはそれなりの年配にお見受けしますけれど、初対面で失礼になってしまいますが、おいくつになられたんでしょうか。この子とぜひ結婚してやって欲しいんですが……」
はにかんでうつむいている女とじっと見あげる男の顔を彼は黙って見つめていた。けれども何故か心を残しながらも、この場を引き裂く思いで背を向け、彼は立ち去った。
路地を出たところで、喪服の女と出会った。一目瞭然だった。亡くなった彼の妻だった。先程の若い頃ではなく、亡くなる頃の彼女だった。
「こんな服では家に帰れないから、あとで着替えて行くわ」
亡妻は台所の流し台を布巾で拭いている。亡くなって十年になるが、流し台だけではなかった。家全体がずいぶん古ぼけてしまって、もう取り返しもつかないのだろうか。いや、そうじゃないんだ。そうじゃない、俺はこう思う。彼女は歳月の過失から命を解放せんと懸命になってこうして生きているに違いないんだ。
彼はまだベッドで仰向いて横になったまま、こんなとりとめもない思いに耽っていた。いったい今、何時ごろだろうか。まだ眼底に少し痛みを覚えているのだが。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。