ヘンリ・ミラーの「北回帰線」を読む。

 最近私はM・ミオ―&J・ランジュの「娘たちの学校」、ジョン・クレランドの「ファニー・ヒル」を読んだので、そう言った流れの中でこの本を読んだ。

 「北回帰線」 ヘンリ・ミラー著 大久保康雄訳 新潮文庫 平成十一年三月二十日三十九刷

 著者は一八九一年ニューヨーク州に生まれ、職業を転々としながら一九三〇年単身でヨーロッパへ渡り主にパリで三六年まで生活するのだが、その間にこの作品は三四年にパリで発表されている。

 自伝的色彩の濃い作品だが、決して自分史を書くのが目的ではない。第一次大戦によって基本的には崩壊した西洋文明の中で、それでも真実はどこにあるのかを死に物狂いで探求した一冊だった。文明が崩壊した社会にそれを求めるわけにはいかない。ひっきょう、自分自身の内部世界への言語による旅が始まった。

 まず、この時代の西洋文明が崩壊しているイメージをよく表現しているフレーズを掲げてみる。

「むろんぼくは大都会につきもののあの世界について語っているのである。つまり機械のために最後の汁の一滴までしぼりとられる男と女―現代的進歩の殉教者―の世界だ。肉づけするのがきわめて困難だという画家たちが思い知るものこそ、この骸骨とカラー・ボタンの集合なのである。」(本書221頁11~13行目)

 死体化した既成の価値観ではなく、自分を成立させている根底、性欲や食欲を中心にしてあらゆる欲望、衝動、怒り、憎しみ、妄想、幻想など、これら生命の根底から自然に湧きあがるものを言葉へと転写した言語集合体だった。

 次のフレーズを掲げて、著者の思いを伝え、私のこの拙い文章を閉じる。

「もし人が自己の心中にあるあらゆるものを翻訳し、真の自己の経験せるもの、嘘いつわりなき自己の真実を書きしるすだけの勇気があるなら、そのときこそ世界はみじんに砕けるであろうとぼくは考える。」(本書333頁9~11行目)

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