転生

  〈Ⅰ〉

 庭にカラスが遊びに来るようになった。

 おとなしく垣根にとまったまま、彼を見つめている。「カアカア」、彼はそう呼びかけてみた。恥ずかしそうにうつむいているかと思うと、また、チョコンと顔をあげてうれしそうに彼を見つめている。三か月前に亡くなったアニー、これは愛猫の名前だが、彼女のフードがまだ残っているのを彼は思い出した。家に駆け込み、キャットフードの袋をわしづかみにして、急いで玄関を飛び出した。カアカアはまだ垣根にいた。

 人工芝を敷いた一階のベランダに彼はキャットフードを一握り置いてみた。そして、「カアカア、いいよ」、カラスを見つめながらそう呼びかけた。すると、垣根を飛びおりて、ちょこちょこベランダまで飛び跳ねながらやって来た。おいしそうにキャットフードを食べている。すっかり食べ終わると彼を見上げ、催促している。もっとちょうだい。キャットフードをひとつかみ、カラスの前に置く。忙しそうにつついて全部平らげたかと思うと、勢いよくザッと飛び出した。隣家を越えて見えなくなった。

 毎日来るようになった。朝、新聞を取りに玄関を出てポストへ行くまでの数メートル、右側の垣根にカラスがとまっている。新聞を取って家に入り、キャットフードの袋を手に、ふたたび垣根まで。「カアカア、おはよう」。そうするとカラス語で、「アー・アー・アー」、三回しゃべっている。親しくなってくると、抑揚を変え、優しく、低声で、「アゥー・アゥー・アゥ―」、一呼吸いれて、「アゥー」。パンとかササミとかいろいろあげてみたが、キャットフードが一番好き。ひょっとしたら愛猫アニーの生まれ変わりだろうか。そのうち、いつの間にか、夫を連れてくるようになった。

  〈Ⅱ〉

 夫ガラスはなかなか彼になつかなかった。隣家の屋根の上でじっと様子をうかがっている。カラスの場合、女より男の方が臆病だ。よく言えば用心深い。状況をじっくりうかがって、落ち着いて行動する。女の方はこの人は大丈夫と思ったら、平気でそばまでやって来る。いや、待てよ。カラスって人間以上に一夫一婦制だった。一度愛しあうと一生二人だけで生活する、そんな鳥族だ。女は男好き。男は女好き。彼は男だ。男だから、女ガラスは安心して寄って来るのかもしれない。だったら、彼が女だったら、男ガラスが遊んでくれるのだろうか。

 一日に四回ないし五回遊びに来た。もっとも多い日で六回。パートナーとまでは言わないが、彼の生活の一部になって偶にやって来ない日があれば、手持無沙汰な気持ちがした。来る度にキャットフードをあげた。女ガラス一人の時が多かったけれど、夫婦二人で来る日も一日に一度か二度あった。女ガラスはカラス語以外に若干の日本語をしゃべるようになった。彼はわざわざ六年前に亡くなった妻の愛称、「えっちゃん」と呼びかけると、「なあに」と答えた。

  〈Ⅲ〉

 カアカアが来て半年が過ぎた。最近は夫ガラスが来なくなった。余りに彼が妻ガラスと親密になってしまったからか。まったく彼の家に寄り付かなくなってしまった。まさかとは思うが、彼に嫉妬しているのだろうか。そんなことはあるまい。とはいえ、それからというもの、彼は彼女を「えっちゃん」と呼び、彼女は彼に「なあに」と答える日々が続いた。

 庭に長さ一メートルの太い棒を二本六十センチ間隔で打ち込み、その上に縦九十センチ横三十センチの板を水平に乗せて固定し、彼女のために食卓を作った。そして四年前にこの世を去った愛犬ジャック、犬種は大型犬の黒いラブラドールレトリバーだったが、彼の遺品のステンレスの食器に水を満たして置いた。

 カラスは人間の五歳児前後の知能があると言われている。確かに彼の女ガラス「えっちゃん」は、それを否定できなかった。いや、もっと知能が高いのだろう。一年が過ぎると、日本語もかなりしゃべり始めた。彼のことを「とんちゃん」と呼ぶようになった。これは亡妻がつけた彼の愛称だった。「えっちゃん」とささやくと、「なあに、とんちゃん」。既に離婚届を出したのだろうか。夫ガラスはまったく姿を見せなくなった。

 三年後、「えっちゃん」は彼の家に住むようになった。毎日ダイニングの椅子に彼女は座っている。



*カラスの絵は、清位裕美の作品


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