お湯が沸くまで

 次元によって変わるのだろうか。それならば、彼もまたさまざまな次元に存在していて、その次元ごとに与えられた運命があり、さまざまな次元、さまざまな生命体、あるいはさまざまな物体、例えば石になってみたり鞭になって牛馬や人を打ちのめしてみたり。だとすれば、彼とはいったい何ものなのか。そして、彼女もまたさまざまな次元に存在しているとなれば、どうしてある一定の次元に彼、また彼女が存在し、ほとんど不可能な確率の中で出会い、あれほどにまで熱烈に愛しあったのだろう。自らの命を捨てるのさえ惜しくはないくらいに。いったいなぜ。さまざまな場所で。ネパール、カンボジア、カイロ、北京、そして日本国兵庫県芦屋にまで。

 十年前にこの世を去った妻が眼前にいた。ひらひらしている。そばに彼の兄がいるが、やはりひらひらしている。空中を飛んでいるのだろうか。彼の存在にはまったく気づいていない。亡妻は彼の目の前までやって来ることもあるが、面と向かっても彼女の眼は彼を見ていない。素通りして体をしなやかにひらひらさせて空間を移動していく。ひょっとしたら彼等は蝶のようなひらひら飛翔する昆虫だろうか。ここは異次元の蝶の世界なのか。しかし待てよ、彼の兄はまだこの世に生きているはずなんだが。いや、きょうの未明、兄は蝶の世界へ移行したのかもしれない。夜が明ければ、義姉に確認してみよう。

 午前四時三分。ダイニングの椅子に座ってこんな妄想遊びをしている間に、どうやらお湯が沸いたようだ。

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