中塚鞠子の詩集「水族館はこわいところ」を読む。

 誤解を承知の上で、私はこの詩集の読後感をこう表現したい。「おもしろい」作品集だった。再読三読した。私の持論だが、詩作品も他人に読んでいただくことを前提しているのだから、読み物として面白い、その辺りも大切ではなかろうか。そんなことなんてどうでもいい、というなら、極論すれば、著者だけが読者でいいのだろう。

 「水族館はこわいところ」 中塚鞠子著 思潮社 2023年9月15日発行

 この詩集は三章に分かれている。まず第一章は、「残像夜話」と題され十二篇の作品、第二章は「夜へ」と題され十六篇の作品、第三章は「ぼくの青い帽子のゆくえ」と題され十二篇、合計四十篇の作品で構成されている。

 多少煩雑にはなるが、この作品集の構造を三層にわたって解剖してみたい。

 第一の層は、「時間」である。どういった時間の中で作品が成立しているかといえば、曾祖母から祖母へ、そして母から娘へ、連綿と続く女の性のような時間の深さの中から言葉が発声されている。従って、この作品の書き手は、「女」であって常に「女」を超えた単独者だった。

 第二層は、「空間」。この作品集はかなり広大な空間を彷徨する。例えば、風呂、水槽、措置室、鍋の中、島、古い駅舎のそば、北の街、故郷、ベトナムのホーチミン、新疆ウイグル自治区のトルファン、ウルムチ、スマホのバーチャル空間、クラゲ水族館、ペルーのリマ、屋久島、シルクロードの砂漠、サハラの赤い砂、北欧のオーロラ、那智の滝、台所、等々。「私」はこうした空間の中に存在し、その存在感を言葉で作品化して報告している。事実、「私」は「鍋の中」へ引きずり込まれてゆく(本書20~21頁、作品「肉じゃがを煮る」を参照)。

 第三層は、作品に登場する「存在者」。「私」以外の他の生命体として、メダカ、蛇、小さな虫、象、馬、駱駝、さまざまな樹木・植物、迷子の子猫、蚊、こびと、すずを売ってくれた少女、小さな蜘蛛、クラゲ、カラス、雀たち。等々。

 そして、さまざまな物体。人工頭脳やウイグル帽、生命を持つに至った椅子、カラシニコフまで出て来る。

 それから一言しておきたいが、「私」の心の底には、罪、秘密、呪い、小さな虫が住んでいたりする。

 こうした時間の縦軸、空間の横軸、登場人「物」、の舞台上で、「私」は妄想や夢、幻想などを交えながら四十篇の作品を紡ぎ出している。ステキな小さな物語。

 ときに、読んでいて、痛切な気持ちになってしまう。例えば、「バス1」(本書114~115頁)、「バス2」(本書116~117頁)を続けて読んで欲しい。これは「女」の単独者の姿を直截して歌ったものだろう。とても悲しくなりはしないだろうか。

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