この建物はいつ崩れ始めるかわからなかった。ベランダに置かれている空調の室外機なども汚泥にまみれ、機械というよりむしろ泥人形が立っている、そんな状態だった。
何故彼はこんな事務所に勤務しているのだろう。何故だ? ふとそんな思念が脳裏をかすめた時、「カワイから電話が入ったよ」、事務机に向かって腰をおろし契約書を作成している彼の左側の方から上司の声が聞こえた。「カワイノリオ」。あわてて彼は住所録を繰ってみたがどこにもそんな名前は記載されていなかった。だが、確かにその名前は記憶に残っている。いったいどんなビジネスでの付き合いだったのか。彼は机に面を伏せて無意識の底へ沈んでしまった記憶の断片を執拗にたどり続けた。ビジネスだったのか、それとも友人。幼い頃の風景の中に浮かぶ友達の姿さえ一枚一枚アルバムを繰っていくように思い浮かべるのだった。
「カワイノリオって、いったいどこで会ったんだろう。ボクにコールバックしてくれって、だったら、おそらく契約の話に違いない。でもどうして直接ボクに電話しなくて、事務所に電話したんだろう。すべての客にボクのスマホの電話番号を教えているのに。あり得ない話だ。だったら、客ではない。だが待てよ。どうして上司はいったん電話を切ってしまったのだ。こうして事務所にいるんだから、ボクに電話を切り替えるのがまともな話じゃないか。イヤがらせじゃないか。あるいは、嘘をついてボクを悩ませようとしたりして。実際、カワイノリオなんて存在していないんだ。架空の人物なんだ。電話なんてなかったんだ。あの上司の野郎。ふざけやがって。もうたくさんだ。この職場は建物だけじゃない、まわり全体が汚泥だ。建物も人間も腐りきっていて事あるごとにボクを陥れ追放し叩きのめそうとしている……」
顔をもたげ辺りを見回すと、彼の眼には薄暗い、誰もいない事務所が浮かんでいる。電気がついていないようだ。そのうえ、いつとは知れず室内が前後左右に揺れている。徐々に大きな揺れに変化していく。ガシャガン、ガシャガン、騒音を立てて振動した瞬間、ドジャリ! 轟音とゴウゴウ唸る地鳴りの中で建物が折れるほど南北にたわんだ。あちらこちらで書棚が倒れた。事務用品が吹っ飛んだ。本や書類が床や机の上にまき散らされている。彼は必死になってドアのノブを回し続けている。ダメだ。ドアは鎖されている。施錠されたままなのか。そんなバカな。揺れはますます激しくなって、もう立ってはいられなくなった。あらゆる逃げ場が閉ざされているのが彼にはわかった。疲れ切って朦朧として倒れ込んだ彼の体を事務用品や本や書類が山になって覆っていた。カワイノリオ、そんな名前が脳を一直線にカナヅチになって疾駆して、頭を破って消えた。
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