誰にでも妄想している時間があるのではなかろうか。そして、それぞれの個人独自の妄想と現実の裂け目の狭い道を歩いていく、あるいは走る、時に疾駆する、立ち止まる、それがそれぞれの個人独自の人生という特異な現象の外観ではなかろうか。
「眼球譚」(初稿) G・バタイユ作 生田耕作訳 河出文庫 2013年3月30日11刷
この作品は、一応バタイユの処女作で、一九二八年、オーシュ卿(便所神)という奇妙な匿名で地下出版されている。三十歳頃の小説。とりあえず、致し方なく、小説だと言っておくのだが。蛇足だが、バタイユは国立図書館員として生涯を送っている。だから、こんな狂気がなせる猥褻本を実名で出版すれば、スキャンダルになって仕事を追われたに違いない。
バタイユ個人としては、彼の脳に限りなく自然発生していく妄想を丹念に書き写していくのだが、その妄想を彼は決して社会的常識や見識などで整理せず、妄想それ自体として、それ固有の精度を極めながら苦行僧の如く記述していく。後は読者各自で直接本書に当たってみて欲しい。
私の読後感はこうだった。読み終えて、ベッドに寝転んでいると、深夜、不思議な観念が私の脳に浮かんでいた。それはこんな観念だった。玉子、牛の睾丸、死体からくり抜かれた眼玉、こうした球体が尻の穴、女の穴を出たり入ったりしている、正気を失った、気狂いじみてしまった、もう正常な生活へは帰れない、妄想劇。信じがたい高揚感、歓喜の絶頂、もはや人間とは言えない超越者へ。世間から完全に孤立して。
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