誰もが暗室を持っていると思う。自分固有の暗室を。ただ、人によって違う。彼の見る限り、多くの人は、暗室は一瞬にやって来て、一瞬に去っていく。そうじゃないだろうか。だから、暗室の存在を知らない。知覚しない。あるいは、こう言ってよければ、一瞬にして忘却してしまう。時折、自分の中に、苦悩の塊に似た、秘密の黒点を感じはするのだが。
彼の場合、昼間でも暗室を引きずっている。他人とおしゃべりをしていても、背後は暗室だった。闇に飲まれていた。おしゃべりは無音だった。唇だけが振動していた。意味は絶え、つるつる闇に飲まれて、泥沼に溺れながら、どろどろの人体になって、終に暗室に閉ざされた。だがしかし、話し相手には常に微笑を送っているのだが。
暗室の中では、既にこの世とは違った物語が始まっていた。
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