「バタイユ作品集」を読む。

 先日この著者の作品「眼球譚(初稿)」を読んだ。またその感想文をブログに書いた。今回は同じ著者のこんな本を読んだ。

 「バタイユ作品集」 G・バタイユ著 生田耕作訳 角川文庫 昭和51年8月30日三版発行

 この作品集に収録されている作品は以下の通りである。

1)「マダム・エドワルダ」1937年頃書かれて、41年、45年に限定本が発行されている。

2)「死者」1943年頃に書かれて、64年に発表されている。

3)「眼球譚」先日読んだこの作品は1928年に発表された初版で、このたび読んだこの作品は1940年に発表されたその改稿である。

4)「エロティシズムに関する逆説」1955年に発表された小論文。

5)「エロティシズムと死の魅惑」1957年に開催されたG・バタイユの講演と討論会の記録。討論会の出席者にはアンドレ・ブルトンやハンス・ベルメール他多数が参加している。

 以上の内容を見ても、かなり充実した作品集だ、そんな印象を受けるだろう。その通りだった。バタイユの作品はまだまだ斬新な香りがする。もちろん糞尿や精液にまみれた香りだが。彼のペンは彼の心の底に堆積し噴きあがってくる性的妄想の極限領域を正確に表現しようと疾駆するが、いわゆる世間知でごまかさず、他愛ない知性や理性で耳障りにならないように粉飾しない特徴を持っている。ステキなことじゃないか。

 さて、ニンゲンという生命体は、雌雄が結合された生殖によりもともと連続体としてこの世にやって来るが、ひとたびこの世に存在するや、基本的には非連続体として生活を送るようになる。誤解を恐れずにわかりやすく表現すれば、個人として、孤独者としてこの世に存在する。この孤独者は、自らの非連続体という自己を否定して性愛行為によって非連続体から連続体へと転化、超越せんとするが、その時、歓喜と共に恥辱を味わわなければならない、自己を失ってしまったという恥辱を。そもそも自己否定という、この行為の本質は自殺行為だった。自己否定の果てはニンゲンが物になること、恥辱にまみれた物になること、ひょっとしたらそれは精液に汚された死体だろうか。

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