死劇 第六番

 彼は不思議な経験をした。洗面台の鏡の前に立った時、鏡に映った彼が、その前に立っている彼に語り続けた。……

 ……憶えているか。あの夜。新しい部屋に案内されたのは。そこではAIに指導され教育され命令され管理されて、また、遺伝子操作によって改造されたかつてニンゲンと呼ばれた生命体が生活していた。五十年後の地球上に浮かんだ小さな島、例の「猿島」の話なんだが。そんな遠い話じゃないぜ。ほんの近未来からの旅行帰りの話なんだから、驚いちゃうぜ。

 いいかい、君もよくご存知の「猿島」、あそこじゃ、もうとっくに「ニンゲン」は消滅していた。ニンゲンから、他の違った生命体へと転化した新世界だった。

 新世界! いいじゃんか。とってもいいじゃんか‼ この新世界の大きな特長の一つは、不具で生まれたものは殺処分していることだった。もっとわかりやすくいえば、脳や身体の出来損ないは生まれた瞬間にあの世行きさ。まあ、受胎した段階で遺伝子を観察、異常な胎児はあらかじめ間引きしているんだが。それでも、不具合な奴が誕生しちゃって。困ったもんだ。殺処分ていう余計な手間が増えてさあ。

 さあ、もう少し聞いてくれ。AIの指導によれば、不具合な胎児の抹殺というニンゲン管理方法の延長上で、高齢者でもう役立たずになった連中も、まったく経済効果がないと判断して、やはり殺処分してさあ。つまり、役立たずなんて全員殺してしまう新世界だった。わかるだろ。ここには「人間」は存在していない。「ニンゲン機械」だけが存在している。それがAIと遺伝子操作に明け暮れた理性と民主主義の五十年後、近未来世界なんだ。とても効率的で、余計なことは考えなくってすんで、スバラシイじゃないか。

 それにいい薬が出来たんだ。もちろん、五十年後だけど、「猿島」の「ニンゲン」は愛しあった男女の性交によらず、すべては人工授精で生まれた胎児にA型発育促進剤を投与するんだ。凄いぜ。五年くらいで成人化し、労働力機械として四十年くらいフル回転させて、くたびれ切ってボロ屑になったころには、ほとんどのニンゲン機械はわざわざ殺処分しなくても、ヒト型をしたボール紙状態。そのまま一分くらいの焼却処分で一生を終える。

 もう少し詳しく報告しておこう。人工受精技術やA型発育促進剤の高度化により、ニンゲンの必要量は調節出来た。精子と卵子を冷凍温存しながら、その時々の必要量に応じて生産・廃棄するのだった。言うまでもなく、性欲本能は減退し、男女に分離されていた性は限りなく同質に近づき、いや、ほとんど男女一体だった。ニンゲンは中性生命体へと転化した。現在議論されているトランスジェンダーは基本的には自然発生した性の現実だが、五十年後の「猿島」の男女一体現象は明らかに人工発生物だった。例えば右胸は男、左胸は女で母乳を出し、または、その逆、右胸から母乳、左胸は男も存在した。陰部でさえ男女両性を具備している生命体も出始めた。科学の発展・深化によって性はいよいよ混乱状態だった。八十年後には「人間」ではなく「両人」と分類されるまでになっていた。だが君、進化って恐ろしいね。陰部に男女両性器が付着している雌雄一体生物になった「両人」が、さらに強烈に一体化してそれが剥落、ついに陰部がつるつるになってしまった。性が消滅した。ねえ君、正直に言ってくれ、これを進化と呼んでいいのだろうか。違う。絶対違う。これは退化だ。退化生命体だ! そればかりではない。百年後にはバクテリア状態になって「両人」は雲散霧消する‼

 でもね。君。わかるだろ。その萌芽は、西洋、特に英国で十九世紀中葉までに既に準備されていたんだ。機械制大工場が完成された時代さ。農民をこぞって駆り立てて労働者へ変身させた時代だった。「囲い込み運動」なんて教科書に書いてあったじゃないか。懐かしいネ。それとももう忘れたのかい。あれだよ。人間を労働力商品として貨幣と交換する、労働力市場で人間を売買する自由、この人間の自由が民主主義の基本になってるんだが。一八六八年以降、「猿島」でもそういうことがあったね。地方の農民が大都市トーキョーやオーサカという町へ出稼ぎにどっと繰り出したじゃないか。女は体それ自体を都へ行って売り出して貨幣に変えたりして。その時からもうこんな未来が背後にぶら下がっていたのさ。いや。もう止めよう。こんな野暮な昔話は。ここから先は自分の頭で思い出してくれ。そして熟慮してくれたまえ。君よ。ボクの分身。このお話は、ここまで。もう夜も更けた。さらば、だ。……

 ちょっと待って。ああそうだった。今度の日曜日、また鏡の中にやって来てもいいかい? お伝えしたい別の話があるんだ。ニンゲンっていう奴、どうしようもない、ほんとに凄いぜ。

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