ものの哀れ

 彼は刀なんて持ったこともないし、まして使った記憶なんてさらさらなかった。なのに、刃渡り一メートルくらいの日本刀らしき鍔のない、物珍しい鞘に納められた刀を携えているのが分かった。鞘はやけに華やかな絵柄、深い緑色の渦巻きの奔流に深紅の花びらがひしめきながら散り敷いていた。真っ昼間、左手に握りしめ、腰のあたりで構えた姿勢で、にぎやかな人混みの中を一目散に走り抜けていった。なぜこんなに大勢の人だらけなんだろう。ここは河原の土手じゃあないか。そうか。満開の桜並木。お花見でそぞろ歩いたり、家族連れでお弁当を食べたり、友人知人お友達が酔っ払ってどんちゃん騒ぎをしているのだろう。

 詰め所で打ち合わせをしていたが、辺りはすっかり闇に沈んでいる。先程まで真っ昼間だと思っていて、まったく気づかなかった。いつのまにか夕方も終わっていた。詰め所だけは煌々と光り輝いている。けれど、詰め所といっても、どこか駄菓子屋みたいな風情だった。実際、駄菓子や日用雑貨の類が店頭に並べられて、客もチラホラしている。それはさておき、ともかく、彼の任務は日本刀を携えて単独でジャングルを偵察することだった。ただ、何のために、どのような目的でジャングルを歩き続けなければならないのか、一切の説明はなかった。確かに一人の男、顔はつるつるしていて唇だけが盛んにうごめいている。何やらヘラヘラしゃべってはいたが、電波が届かないのか聞きづらく、詰まるところ歩き続ける方向だけを何度も何度も繰り返し指示しているだけ。何故歩き続けなければならないのか、そこのところの説明はまったく聞こえなかった。よくわからなかったが、二度とこの世に帰ってこれそうもない危険な前線への任務が与えられた、彼は何となくそんな嫌な感じ、いや、ほとんど絶望のどん底に振り落とされてしまったといった悲痛に身を苛まれてしまった。自分の死体が彼の眼前に浮かんでいた。

 詰め所を後にして、ジャングルの中を歩き続けている。命令通り、どこまでも前進していた。闇をかき分けかき分け歩きながら、確かこんなことは以前にもあった、そうだ、違いない、確かにあったぞ。ひょっとしたら今まで何度もここを歩いて来たんじゃないか。でもしかし、いったい誰が命令しているのか。まったく記憶には残っていない。日本刀を左手に携えて、ジャングルを奥へ奥へ歩き続けている。これじゃあ、まるでジャングル病者じゃあないか。ちょっと待て。本当に日本刀をこの左手は握っているのだろうか。あやしいぞ。よく見極めよ。ここは果たしてジャングルだろうか。樹木一本もない、闇。本当にここを俺の両足は歩き続けているのだろうか、俺に足が生えているのだろうか。いったい目的地は何処にあるのだ。なんだこりゃ。なにもかも、意味不明のままで、左手に日本刀を握りしめ、両足で前進し、繰り返し、何度も、繰り返して、闇に、哀れな独り言を落とし。

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