<セリ・ポエティク>Ⅳ「アルフレッド・ジャリ」を読む。 

 いま、日本で「現代」詩を書いている人で、この詩人を一度読んでみよう、あるいは、読んで面白かった、あるいはまた、ちっとも面白くなかった、そんな時間を費やした人がたくさんいるのだろうか。どうだろうか。

 <セリ・ポエティク>Ⅳ「アルフレッド・ジャリ」 編集/ジャック=アンリ・レヴェス

ク 訳者/宮川明子 思潮社 1969年5月15日発行

 いきなり余談になってしまうが、そして極めて個人的な思い出話だが、この本の発行日、1969年5月15日には、4月28日沖縄デーの際、新左翼のデモ隊の一員として機動隊に突入し、山手線新橋・有楽町間の線路上で逮捕され、城東警察署の留置所で私は寝泊まりしていたのだった。この発行日は、あの頃の私を強く想起させた。三食昼寝付きで。二十歳の誕生日、5月18日もこの留置所で迎えたが、今となっては、トテモ懐かしい、そう言っておこう。

 何故こんな思い出をしたのかといえば、アルフレッド・ジャリにはまことに強烈なアナーキーの心が宿っているからだ。ネルヴァル、ボードレール、ランボー、ロートレアモン由来のアナーキーな心が。

 再び私の場合を参考のためご報告しておくが、十代の私が自称「革命運動」に参入したのは、もちろんマルクスやレーニンなどの革命理論もかじってはいたけれど、むしろ十五歳ごろからカフカやランボー、萩原朔太郎や初期の椎名麟三などに親しんでいたからに違いなかった。また、言い換えれば、そのような世界を好む少年期・青年期を過ごしたからに相違ない、そうではないだろうか。

 アルフレッド・ジャリのアナーキーな心も、理屈ではなく、極めて自然に、当たり前の話だがネルヴァルやランボーとは異なってはいるが、どこか共通する彼ら本来の姿であって、その姿・形を大切にしてこの世を渡り歩いたのではないだろうか。

 例えば、この本に収録されている作品、「ちょんぎり首の唄」(本書150~153頁)、「王の沐浴」(本書171~172頁)、「阿片」(本書178~182頁)を一読いただきたい。作品「阿片」は、いまさら言うまでもないが、ド・クインシーの「阿片常用者の告白」、ボードレールの「人口楽園」に続く短篇ながらステキな作品でその流れの中で後日、アンリ・ミショーの「みじめな奇蹟」など一連の作品へ流れ続いているのだろうか。そしておそらく、人間が存在する限り、表に流れている時間の裏側に、こうした黒い、しかし銀色に光り輝く流れが、少数の人たちによって流れ続けるであろうことを、私の経験上、この歳になって、もはや確信する次第だった。

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

ページ上部へ戻る