もっと 愛して

 信じられないことが起こった。奇妙な事件が突然彼に降りかかってきたのだ。何としてもこの事件の概略だけでもご報告しておきたい。

 タバコを止めてもう二十年くらいたっている。今では居酒屋で友人が吸っていても、彼は平然としている。まったくタバコの味には興味が失せてしまった。意識にさえ浮かばなかった。影も形もなかった。

 十一月になって、寒波が走る夜。以前から知ってはいたがいつも素通りしていたスナックの扉を押して、余程酒が回っていたのか、店内へふらりと彼は足を踏み入れた。

 寒い夜のせいだろうか。客は誰もいない。カウンターの扉口に近い椅子に彼は席を占めた。カウンターの中には三十代半ばくらいに見えるが身のこなし方が優しくひょっとしたらもう五十代だろうか、モデルのような可愛いママが彼を見つめている。黒いネット帽を被り、両肩に垂れた金髪、弓なりに反ったまつ毛、中央には綺麗なカーブを描く鼻筋が、そしてあやしく濡れる紅の唇。

「いらっしゃいませ。初めまして」

 ウィスキーの水割りを飲みながら、彼はママ、ニックネームはリカちゃんだったが、なんでもない世間話を楽しんでいた。突然リカちゃんは、

「Mさん、タバコ、どう」

「いや、昔は吸っていたが。一日五十本ぐらいのヘビースモーカー。だけど、止めてもう二十年くらいになる」

「ねえ、一本、試しに吸ってみない。ニコチンは1ミリ。ヘビースモーカーだったMさんには軽すぎて物足りないけど。二十年ぶりに恋人と会うのも、ちょっとステキじゃない……」

 一本が五本に、十本になってしまった。酒とタバコとリカちゃん。十一月の寒い夜以来、彼はこのスナックにしばしば足を運ぶようになってしまった。必ずママは彼にタバコを用意していた。彼がタバコをくわえると、ママがそれに火をつけた。タバコだけではなかった。ママは彼の心にまで火をつけたのだった。彼はすべての遊びを捨てて、この夜遊びだけを限りなく悦楽するのだった。

 もちろんスナックが休みの時は、この小さな街のあちらこちら、レストランや寿司屋、スナックやバーで彼とリカちゃんの姿を見かけるようになった。出来るだけタバコの吸える店を探し、二人で酒とタバコを楽しんでいた。驚くほど本数も増え、もうニコチン中毒だと言ってよかった。

 前置きは終わった。ここからあの奇妙な事件が発生した。春の夕暮れ、突然二人は逮捕されたのだった。事件はネットでも少なからず騒がれたので、大方はご存知かもしれない。もちろん、人によってさまざまな意見があるだろう。ただここでは、この事件をまだ耳にしていない方に経緯の事実だけを簡単に報告して、とりあえずこのレポートは終了させたい。

 周知の通り去年の十二月に成立したニコチン中毒禁止法で、最初の逮捕者が出たが、それがこの二人だった。拘置所で三か月余りの取り調べの後、七月の末、午前中、法廷で彼等の有罪が確定した。そのまま二人は刑務所に護送された。また、三年前に発効した男女平等法に基づいて、彼等は二人部屋の監獄に放り込まれた。午後零時。鉄格子が入った小さな長方形の窓には真昼の青空が嘘のように透きとおっていた。時折、その窓の青空に、夏の雲が流れた。もっと、愛して。酒もタバコもなかったけれど、監獄の中で、Mとリカは激しく愛しあった。

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