透明になった「私」

 いったい何がしたいんだ。訳が分からない。ダイニングの床暖房の壁スイッチにマヨネーズを渦巻状に絞り出して掛けている。さっきからそんな馬鹿げたことをやっている奴。ここからは後頭部と背中しか見えない。そのうえ画面がぼやけてちょっと判別しにくいが、目を凝らして観察してみると、何と! 間違いない。「私」がやっているのじゃないか!

 どうしたんだ。オイ。ダメじゃないか。大きなタライ。白いプラスチック製のタライ。開口部の円形が直径二メートルくらいあるタライを、やはりもう一人の「私」が洗っている。流し台の蛇口からホースを引っぱって来てジャアジャア水をぶっかけながら。ダイニングの床暖房をしている床の上で。あたりかまわず水浸しになっているが、生真面目な顔つきで「私」は奇妙な家事にいそしんでいる。

 洗面所では、誰もいないが、洗濯機の蓋が自然に開いた。カゴからパンツや靴下、シャツやジーパンを見えない手がつかみだして洗濯機の中へ放り込んでいる。つかんでいる手の形は洗濯物に付いているが、本体の手そのものは見えない。間違いない。誰もいない。もし誰かいるとしたなら、それは昔映画やテレビで見た透明人間に違いない。待てよ。この家には私一人しか住んでいない。一人住まいの身の上ではないか。今の今まで、てっきり私はそう思い込んでいた。でも、ひょっとしたら洗濯をしてるのは透明な「私」ではないのだろうか。だったら、少なくともこの家では、さまざまな「私」がいっしょに暮らしているんじゃないだろうか。

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