
こんなところに財布が落ちている。レンガ色をしたタイル張りの長い階段を上っている途中、踏み面から黒革の財布をMは拾いあげた。ためつすがめつして、彼は確信した。「アレ、これボクの財布じゃないか」。念のためセカンドバッグの中を探したが、やはり彼の財布はなかった。それだけではなかった。拾った彼の財布の中身は何もなかった。お金もカードも寿司屋やタクシーなどの領収書の類も。全部盗まれてしまった。
人混みの中をさ迷い歩いた。ここは巨大なホテルのロビーだろうか。大阪梅田地下街の円形の地下広場だろうか。それとも東京駅の駅前広場だろうか。とにかくひっきりなしにニンゲンが密集してうごめいている。人混みの合間の先に、銀行の窓口が見える。「あそこだ、あそこに銀行がある」、人混みを縫ってMは懸命に足を運んだ。
だだっぴろい窓口で、端の方はボンヤリ霞んで見通しがきかない。忙しそうにピョコピョコうごめいている社員らしき男や女に懇願に近い形相で相談するが、「銀行には何もできません。あなたの自己責任の世界です」、そんな厳しい内容の回答ばかりが返ってくる。
「スマホもカードもお金も盗まれました。どうか電話を貸してください。クレジットカード会社に盗難届をしておかないと……」
「無料で電話をお貸しすることは出来ません、そんなこともわからないって、あなたはほんとに社会人ですか」
もう夜更けなのか。未明になってしまったのか。それとも夜明けに近いのか。振り返ってみると、誰もいない。いや、見渡せば辺りいちめん誰もいないではないか。足音もしない。オレは一人だ。Mは肩を落とした。きょう一日の惨めな出来事が脳裏に渦巻いて、彼を締め付けた。オレはもはや社会人ではなかったんだ、悲痛な気持ちに苛まれながら、彼は自分に何度も言い聞かせていた。そうだ。やはり、時間が未来へ移動するあいだに、すべて存在するモノは分散され、バラバラに散乱して、透明に近づいてみたり、汚濁したり、あるいは生きている場所全体黒と灰色のまだらになった靄がかかったりしながら、いつとも知れずこの世から消えていくのだろうか。オレのあの財布の中身のように。いや、もっと恐ろしいことに、オレ自身の中身までが既に消えているのじゃないか。外面の皮だけ残して。
それにしても、ただひとつ、不可解なことがあった。人混みも消えて画面の映像が終了した深い闇の中に、行きつけのスナックのママの腰から上だけが浮かんでいる。特段Mは彼女を愛してもいないし、男女関係もなかった。だのに、浮かんで、笑いながらMを見つめて何やらしゃべり続けている。ここまで音は届かないが。だから、唇が開閉しているだけで言葉の意味は途絶えてはいるが。でも、なぜ、ママがここにやって来たのだ。どうしてだろう。
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