
何が光っているのかわからなかった。ダイヤモンドではないのは確かだった。なぜって、こんな貧しい我が家に宝石なんて。女っ気もなしに。ましてダイヤモンドが。
だったら、あれは禿げ頭が光ったのだろうか。いや、そうじゃあるまい。これを見てくれ。私はこの歳になって少し毛は薄くはなってしまったが、光るには至っていない。それにこの部屋には誰もいない。私を除いては。だから、決して禿げ頭が光ったのではない。
じゃあ、光るものがなくて、それでも光っている、そんな現象がこの世に存在しているのだろうか。いや、それはあり得ない。そうじゃないか。当たり前じゃないか。光があるから、光るのであって、光がなければ、何ものも光るはずはなかった。真っ暗になるはずだ。私の記憶に間違いがなければ、昔からそれを闇と呼んでいるのだろう。確かそうじゃなかったか。ちょっと物忘れがひどいから、間違ってりゃごめんなさい。
私の主張はどこかおかしいだろうか。どこもおかしいところはない、私はそう思っている。おかしいところがあれば誰か指摘してくれないか。そんな奴、誰もいないだろう。それならば、なぜ光るものがないこの部屋の中で光っているものがあるのだろうか。
私の部屋は、いつも暗いという特徴を持っている。貧しくて電気代も払えなくて、電気の元栓を切られてしまった。電気がつかない。また、ローソクもマッチも買っていない。まして懐中電灯を買うなんて、少ない年金では、とても。余談になるが、もうすぐ水道も止められるだろう。
こんな追い詰められた状況下。光から見放されてしまった窮乏生活。どぶ泥のどん底。それでも私の中に光るものが宿っているなんて。どこにも光るものなんてないのに。いったいこれはなんだ。人によってはこれを愛だというのだろうか。愛の光だと。けれど、私は長い間ひとりぼっちで暮らしている高齢者なのだが。相手にしてくれる人なんて皆無なのに。こんな薄暗い部屋で。もう断続的にはなってしまったが、それでもときおり脳の中でかすかにボーボーと音がして、何か光っている。
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