
物語は、その女から始まる。
眉毛はない。剃り落してしまったのか。眉墨で黒い三日月の線を描いている。瞳の上に妖しく弓なりに反りかえるまつ毛。顔全体はおしろいの皮を被せて。紅だけではない。紫やピンクになったり、さまざまな色に濡れる唇。両耳には繊細な金色の鎖状のイヤリングがぶら下がり。髪型も髪の色も、会うたびに変形したり紫やら緑やらブロンドに変色してみたり。
何度会っても、正体不明の女だった。
しかし、何故だろう、メールが入ると、つい出かけてしまって、ずいぶん散財してしまう。こんなことを繰り返していたら、もうそろそろ財布が破綻するかもしれない。でもメールがやって来るとそんな杞憂もすっかり忘れてしまって、まるで富裕層かのごとく呆けてしまって。確かに、会っていると、エメラルド色の湖で水浴している気分になって、そのまま溺れてしまって、言いがたい恍惚が。
よくこの同じアーケードの下で歩いたね。ふたりきりで。左右にはさまざまなお店が並んでいた。ちょっと気が引いたお店があれば、ときおり冷やかしては、見つめあって、笑ってた。手をキュと握りしめたりして。
前方からは人また人。人の波の間を縫って、さらに遠くまで足を運んだね。だが、ある日、こんな異変に気が付いた。あれ。後方からは誰も来ない。振り返ったら、後ろには誰もいない。辺りをキョロキョロ確認したが、前方からも後方からも、こちらにやって来る人なんて一人だっていない。商店の中にも誰もいない。そのうえ、おおぜいの人波が後方の商店街の彼方へ消えていく。
どうしてだろう。もう誰もいなくなった。背後だけではなかった。前方にも誰もいなくなった。無人街。こんなこと絶対信じたくないけれど。愕然としてアーケードの下で立ち尽くしてしまった。だって、その女も消えていた。いたたまれなくなった。知らない場所でひとりぼっち、だった。
M、ひとり。いまだに薄暗いトンネルを歩いている。ずいぶん記憶は褪せてしまったが、おそらく商店街の先はこのトンネルだったに違いない。先が見えないトンネルをたどりながら、彼は自分に言いきかせてみた。そうじゃないか。破綻したのは財布だけではなかった。そもそもこの物語それ自体が最初から破綻していたのだ。闇の中で、ライターの光で、Mは物語の最初の一行目から再読してみた。間違いない。すべては最初から破綻している。ひょっとしたら愛しあえるかもしれないとまで思いつめた「その女」と共に、既にあの懐かしいアーケードの下で。
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