
カウンターの右隣に座った女性に彼は不思議な魅力を覚えた。
今年になって彼はスナックRへしばしば足を運ぶようになった。これまで一人で飲み歩くことはほとんどなかったのだが。
リカよ、その女性はそんな名前を呟いていた。彫りの深い顔立ちで、冷たい優しさを秘めた典型的な美人だった。彼の長い人生の中で初めて現れた美人、そう言って決して過言ではなかった。彼女は、生ビールより瓶がいいの、グラスにビールを注いでいる。彼はキープしているウィスキーで水割りを飲んでいた。ややうつむいたまま、リカは語り続けた。
「頭の中、脳を保護している膜、三つの膜があるの、知ってる。外側から言うと、硬膜、くも膜、軟膜。二年前、あたしの軟膜とくも膜の間に血が流れたの。わかる。これって、くも膜下出血。もう少し詳しく言えば、動脈の分岐部に動脈瘤が出来て、それが破裂したのよ。
あたし、ひとり暮らしだから、夜の七時ごろ、スマホで救急車を呼んだあと、ダイニングの床に倒れたまま、しばらく意識を失っていたわ。ドアは施錠していた。救急隊員が入れない。何故か一瞬意識が戻って鍵を開け、そのまままた玄関ホールで意識を失ってしまった。だからそのあと何があったのか、全然記憶に残っていない。病院のベッドで目覚めた時、生きているだけでも幸せだと思いなさい、そんなアドバイスを先生からいただいた。
くも膜下出血って、発症したら三分の一の人が死に、三分の一の人が後遺障害を残して、後の三分の一だけが社会生活に復帰出来ると言われているの。あたしは左手の親指だけ少し動かしづらいけど、それ以外はどこもおかしいところはない。このことがあってから、無理なストレスをかけないで、これからは一日一日楽しく生きていこう、そんなふうに思うようになった。
ごめんね、初対面で、こんな暗い話をして」
しかし彼は彼女の病状をもっと知りたくて、そもそもくも膜下出血になるような原因があったのか教えて欲しい、彼女の横顔を見つめながら、そっと語りかけた。
「十年ほど前、病院の検査で動脈に小さな瘤が何個か見つかったの。別に今すぐどうのこうのという訳ではないけれど、一応年に一回経過観察を続けていると、四年前、大きくなった瘤が見つかった。先生と話し合った結果、破裂する前に開頭して、クリッピングというのだけど、瘤をクリップのようなもので止める治療をした。もうこれで安心だと思った。でも、二年前に破裂した瘤は違った場所で大きくなった瘤で経過観察では見つからなかったの。でも、ほんとに幸運だった……」
「…………」
「もうこんな話、止めにしましょうね……」
それから数時間、二人で意気投合して、かなり酒をやり過ごした。彼女は防腐剤を使っていない日本産の白葡萄酒が好みで、もう二本目に入っていた。防腐剤をためらう気持ちは、やはりくも膜下出血の影響なのだろうか。
「家まで送るよ。ママ、タクシーを呼んで」
既に午前零時になっていた。そろそろこのお店がクローズする時間だった。
「十分ほど待ってね。少し混んでるみたい」
二階のスナックから二人で階段を下りると、道路脇にタクシーが待っている。先に彼が乗車し、左隣に彼女が座って、
「山手町までお願いします」
いつの間にか山手町を過ぎて、六甲山のふもとで暗くて判然とはしないがどこか荒涼とした雑木林の前でタクシーは停まった。
「ちょっと寄っていかない。酔い覚ましにお茶をいれるわ」
雑木林の奥には一軒家が立っている。それほど大きくはない古びた平屋だった。闇に沈んで鮮明ではないが、彼の眼にはほとんど廃屋ではないか、そう覚えられるのだった。ドアを開けると真っ暗闇だった。彼の右腕に彼女の左腕が回されて身を寄せて来た。
「その先の階段を下りてゆくの。素敵な地下室にまで。そこで二人っきりでもう一度お酒を……」
まるで目隠しでもされているかの如く、暗闇の中、覚束ない足取りで階下へ降りた。地下室のドアが開いた。
「すぐに用意するから、待っててね」
背中を押されて彼は地下室に入った。ドアが施錠されるのが分かった。さらに闇は深く、もう何も見えなかった。ただ、辺り一面、ガサガサ騒ぐ不気味な音が散乱していた。そればかりではなく、足元から太股、腰、胸、首の方まで長軸が三センチ大から四センチ大の黒褐色をした楕円形の虫が無数に這いずり回って上がってくる。必死に振り払っている彼をあざ笑うかのように、夥しい楕円形の虫が一気に顎の下から頭髪まですべてを覆い尽くしていた。
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