
こんなはずではなかった。なぜこんな宴会場の円テーブルの片隅に座っているのだろうか。以前会ったような顔に取り囲まれているようで、よく見れば見知らぬ人々ばかりだった。こんなはずではなかった。こんな……
手持無沙汰で、左隣の女性と世間話をしたり、そうだ、確かビールを飲んだ記憶はある。しかし彼のコップにいったい誰がビールを注いだのだろう。左隣はどんな女性だったか、いや、本当に女性だったのか、どうだったのか。
街へ出ていた。ビルの二階へあがって、カウンターでウィスキーの水割りを飲んでいたのだろうか。カウンターの中に女性が立っていて、おそらく彼女がグラスに酒を注いでくれたのだろうか。ついでに氷も。右隣に座っている女性が親し気に話しかけてくる。時に彼の右頬に接吻をして笑っている。彼の右手の指先を彼女の左手の親指と人差し指、中指で愛撫している。じっと見つめながら赤い口紅を濡らして何やらおしゃべりしているが、ただ彼女の熱い吐息の湿り気を耳もとから右頬にかけて彼はしっとり感じるばかりで、もう声など聞こえなかった。酒のせいか、それとも湿った吐息のせいか、爛れた快感が波打っている。ところどころ破れて空白まみれの映像が頭の中を滑っていく。無数の泡が揺らめいている。だったら、右隣の女性は恋人だろうか。待て。俺には恋人なんているはずはないんだが。こんなちょっとした自問自答が彼の脳裏に浮かんでは、泡になってはじけ、水滴になって、下半身の方へ落ちていく。
小ステージに立って、女性の腰に手を回し、マイクを片手にデュエットしていた。どうやら先程のスナックではなかった。なぜって、あのお店はカウンターだけでカラオケ用のステージを見かけはしなかったじゃないか。女性の右腰を彼の左腰に引き寄せながら、そんな小さな自問自答が彼の酔っ払った頭を一瞬走った。彼女と歌っている曲は、最近ハマってしまった「別れても好きな人」ではなかったか。彼女は茶化して「別れたら次の人」なんて彼にハモって微笑を浮かべている。この女性はどこか見覚えがあった。ひょっとしたら、あの人だったのかもしれない、十年前にこの世を去った、あの人。いや、それとも、最近出会ったあの女ではないだろうか。
ステージの下から紅色や桃色の無数の泡が吹きあがって来た。全身、極彩色の泡にまみれ、ベチャベチャした音に包まれ、ヒクヒク痙攣しながら、たまらず、彼の意識は絶えた……後部座席の左隣には彼女が座っていた。彼女の右手のひらが彼の左手のひらを握りしめている。彼女という言葉を使ってみたが、年齢もわからない、顔も灰色の靄がかかって判然としない、得体のしれない女。二人を乗せてタクシーは未明の街を疾駆した。彼の右手に川が流れていた。星もない暗闇に、ひとすじ、銀色にキラキラ煌めいている。一度も見た記憶がない川だったが。キラキラ輝いて、過去に出会った女性が、すべて、流れて、闇の奥に閉ざされ、消えていく。ここはどこだろう。公園だろうか。まだ薄暗い夜明け前のベンチに彼は座っていた。すべては流れてしまった、闇の奥に消えてしまった。誰もいない。ひとりだった。少なくともこれだけは確かなことだった。彼は顔をあおむけ、右手に、ウィスキーのボトルを握りしめ、開いた唇へ傾けて。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。







この記事へのコメントはありません。