
こんばんは。ドアホンを鳴らさず、いきなり玄関フロアの方から夜の挨拶が聞こえた。玄関ドアの鍵を閉めてベッドに横たわったはずなのだが。それにしても今何時ごろなのだろう。こんな夜更けに何用があって、この女はやって来たのだろうか。はて。確か女の声に違いないけれど。……彼の頭はこんな問答を繰り返していたのだった。
やって来ましたよ。誰かがベッドのそばに立っている気配。その気配から声がしたのだった。今夜はとても寒い夜で、しんしんとして、物音ひとつしない。いや。間違いない。女の声だ。しかし、寝室の中まで入りこんでいるのに、聞き覚えのない声。家を間違えたんじゃないだろうか。ふたたび彼の頭は果てしない問答を繰り返し始めるのだった。この女、見知らぬ女に違いない。だったら、いったいなぜ、わざわざ我が家を訪れたのだろう。だとすれば、過去に付き合いのあった女の幽霊ではない。これは見知らぬ女の化物だ! そうじゃないか。ぜったい間違いない。そうに違いない! 彼の頭はまくしたて、叫び続けていた、こいつは、化物だ!
あたしよ、あたし。忘れないで。四十年前に、お会いしたでしょう、一度だけよ、あの夜、無理やり、拒んでも、あの犯罪めいたお付き合いを強いられて。したでしょ。もう忘れたの。あなたが忘れても、知らんふりしても、あたし、金輪際忘れないわ。生きているってそういうものよ。四十年前のあなたの汚点。酔った勢いだったって、そんな理屈は通用しないわ。あなたは死の床に寝転んで、もうすぐこの世を去る前に、あなたの死の寸前に、あたしに犯した罪を抱きしめながら、耐え難い後悔と苦悩を残して、あの世に消えていきなさい。
あたし、十年前にガンでこの世を去ったけど、もう一度あなたに会いたくなったのよ。喜んでちょうだい。思い出した? 屈辱を晴らす日がやって来たわ。地獄へ堕としてあげる。臨終の苦しみをこれから思う存分教えてあげるわね。
とりあえず、あなたの首をください。あの時のネクタイで絞めて殺してあげるから。では、いまから、始めましょ。四十年前の忌わしい妄想の夜の続きを。現実の出来事ではなく、妄想の世界で出会ったあの時のふたりだけの悪徳の極みを。お願い、あなた、どうか妄想への償いをしてやってください。
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