北枕の話

 こんな噂を耳にした。

 別に読者にこれは真実だ、そう信じていただきたいためにこんな文章を、わざわざ夜更けに勉強机に蛍光灯をつけて、書いているわけではない。そうじゃなくて、ある女性、彼にとって現在のところただ一人の大切な知己ともいえるのだが、深夜のバーのカウンターの左隣に座り、孤独な彼の耳もとへ寄り添うように唇を傾け、不思議な物語を奏でるのだった。

 枕の話だった。

 ダマされてるのよ、ずっと昔から。中世の武将たちだって、自分たちの地位を守るため、農民たち、そうよ、支配する民衆みんなに、北枕は死んだ人のためにやるんであって、生きている人がしたらダメだよ、凶運がやって来るよ、そんな呪いで洗脳したの。お釈迦さんは死ぬときに北枕にしたって。死んだ人のためだけだよ、怖いこわ~い北枕は。

 わかる。人間の運を支配する霊気は、北から南へと流れている。だから、北枕をすれば、霊気が上がり、その人に強運をもたらすの。民衆が北枕をしたら、力強く立ち上がって自分たちを叩き潰す、そんな地獄的な状況に武将たちはおののいて、民衆には北枕は怖ろしい、仏教の教えの通り、死者のための儀式にだけ、つまり、葬式の時にだけ北枕しようね、こうよ、彼等は民衆をマインドコントロールしたのよ。

 あなた、だから、今夜から、北枕にして。ねえ、どうか強運を呼び寄せる北枕で眠ってください。あたしも北枕よ。わかる? あたしたちふたりのためよ。

 彼女からこの話を聞き終わったその夜、それは昨夜の話だが、彼は北枕にしてベッドに横たわった。今夜も北枕だった。ふたりだけのために。

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