ある自転車

 ほの暗い路地だ。狭いといっても、幅一メートルもない、ほとんど線状路地とでも表現すればいいのか。

 おおよそ十メートルくらい先は行き止まりになっていて、高さ三メートルほどのコンクリートの壁になっている。壁の左側には幅約三十センチくらいの階段がついている。階段を上がった壁の向こう側にはいったい何があるのだろう。向こう側は黒い闇のスクリーンに覆われて彼の立っている場所からは何も判別がつかなかった。そればかりではなかった。ここ数年、視力の衰えがやって来て、夕暮れでさえ彼の視界はぼんやりとして辺りに何が存在するのか、皆目判断がつかない折がしばしばだった。

 どうしてもあの向こう側へ行ってみたい、何事につけ好奇心が旺盛な彼は前方を凝視しながら、自らにそう言い続けるのだった。俺は、ここから見ればあの闇に閉ざされ余りに漠然としてぼんやりした界隈、「あの向こう側」へどうしても一度は足を踏み入れてみたい。何が存在しているのか、この目でしっかり確かめてみたい。……

 だが、極めて残念な次第だが、これだけはお伝えしておかなければならない。確かにこの一メートルにも満たない狭い路地の突き当りの壁の左側にしつらえられた幅三十センチくらいの階段、この階段によって「あの向こう側」と彼はつながっているのではあるが、その手前に一台の自転車が放置されているのだった。

 彼の方からは後輪からハンドルまでが見えている。言うまでもなく、狭い路地いっぱいに斜めに放置された自転車をどかさなければ階段を上がって「あの向こう側」へ到りつくことは不可能だった。そのうえ、不運としか言いようはないが、何度も自転車を動かそうとしても、不動だった。それはなぜか地面に固定されているのだった。不気味な存在だった。乗り越えて前進すればいいのだが、不安というよりもむしろすさまじい恐怖を覚えて、彼は路地に立ち竦んでいたのだった。

 自転車は彼から「あの向こう側」をいつまでも遮断していた。幅一メートルにも満たないほの暗い路地、突き当りの高さ約三メートルのコンクリート造の壁、その左についている幅三十センチあるかないかの階段、そして不動の自転車、これだけが、この四点だけが、今の彼にとっては存在しているもののすべてだった。

 かなり時間が経っているのだろう。辺りは仄白んできたが、もうすぐ朝焼けなのか、それともひょっとしたら夕焼けなのか、彼にはわからなかった。

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