
私自身があの花の香りをかいでしまったためであろうか。記憶の断片しか残っていない。それは長い手紙が引き裂かれ、風に吹かれて、千切れた破片数十枚が手元に残されていて、それらをつなぎ合わせている作業に酷似していた。あちらこちらに穴が開いていて、憶測ばかりをたくましくして、肝心な核心は不明のままだった。
一切の仮定や憶測を消去して、残留した断片だけを並べてみよう。確かに意味不明ではあるが、私という存在者の内面に渦巻いているカオスの一部を伝える資料にでもなれば、そんな期待を込めて。
ユリの花が満開だった。辺り一面咲き乱れてはいるのだが、色は分からなかった。なぜか色はぼんやり漂っていた。さざ波か、あるいは池に石を投げた波状の水紋か。
微細な波に震える靄状のユリの花畑の中からユリ状の女性が出てきた。リカよ、笑みを落としてそうささやいている。なぜユリ状の女性なんて形容を思いついたのだろうか。わからない。ただ、画面全体が無数の柔らかいユリで組み合わされて微妙にふにゃふにゃうごめいていたとでも言えばいいのだろうか。
485万回紛失したの。リカの声がしたけれど、その前後は千切れていて、この言葉だけが水面に泡になってぷちゃぷちゃ浮かんでいる。485万回。ほとんど無数よ。無数に紛失したのよ。とても強い睡眠作用があるユリのお薬。今も研究されているわ。覚えておいて。ユリってお花じゃないの。実は、女なの。485万回紛失した女のさざ波。無数に漂泊する波状の水紋。この岸辺に向かって。リカの声はもうほとんど遠い水紋になって帰って来るのだった。ご存知でしょう。前にも一度訪れたことのある、あそこよ、アーネクライネ研究所のこと……。
はなはだ申し訳ないが、今回残された資料はわずかこれだけに過ぎない。アーネクライネ研究所? ずいぶん昔、どこかでこれと似たような曲名を耳にした記憶があるのだが。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。







この記事へのコメントはありません。